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「お前の髪の毛も今日限りだな」山梨学院大を史上最速で箱根駅伝へ…創部2年目の“愚直な練習”とは?「今だったら絶対にアウトですよね(笑)」
posted2024/01/04 11:00
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
Nanae Suzuki
発売中のNumber1087・1088号掲載の[創部2年の軌跡]1987年・山梨学院大学「愚直さと秘策がもたらした初出場」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】
史上最速で箱根駅伝出場
創部2年目のチームを記憶の片隅から引っ張り出し、季節に合わせて鍋に例えた。
「寄せ鍋だけど肉は入っていない。本当の意味での寄せ集め。あれでどうやって行けたんだと。言われてみれば不思議だね」
上田誠仁は当時27歳。監督も若ければ、チームも若かった。創部2年目の山梨学大がほぼ1年生のみの布陣ながら、史上最速で箱根駅伝出場を果たしたのは1987年大会でのことだった。もちろん粒ぞろいのルーキーがいたわけではない。「肉なし」とは、エース級がいなかったことを指す。
「私もまだ監督2年目ですから、スカウトで良い選手が取れるわけがないんです。5000m16分台の選手とか、他の大学を落ちた子。デコボコの集団でしたよ」
落ちこぼれ集団が常連校を打ち負かし、わずか2年で箱根出場の夢を叶える。漫画のような成長譚は1本の電話から始まった。上田の母校である順大の澤木啓祐から、「新たに箱根を目指す大学がある。お前を推薦したい」と監督打診の話があったのだ。当時、上田は郷里の香川県で教職に就いていたが、駅伝のイロハを教わった恩師の誘いを断るわけにはいかなかった。
「鬼の澤木と仏の小出」からの手ほどき
だが、いざ大学のある甲府に来てみると、想像を絶する環境が待っていた。寮はなく、専用のグラウンドもない。選手は8人かき集めたが、すぐに4人が辞めた。すでに存在した同好会から2人の上級生が加入したが、1人はマネージャーに転身した。実質、選手5人からのスタートだ。一緒に走ってみると、監督が一番速かった。
大学は当初、「5年で箱根に連れて行ってほしい」と頼んだそうだが、上田は4年にこだわった。なぜか。
「そうじゃないと、最初の年に入ったやつらが卒業しちゃうじゃないですか。だから、『お前たちが卒業するまでには行くぞ』と。根拠は何もなかったですけどね」
大見得を切ったこともあり、上田は就任1年目から情熱のすべてを注ぎ込んだ。順大時代、3年間は澤木から指導を受け、4年生の時は臨時でコーチに就いた小出義雄から教わった。鬼の澤木と、仏の小出。2人の名将から手ほどきを受けたことが上田の財産である。学生たちに課す練習メニューは、知と情にあふれていた。
「筋力や心肺機能を高めるために、知ってる限りのことはやりましたね。自転車も使ったし、プールも利用して、ちゃんと澤木先生のように理詰めで説明できるようにしました。でも、学生たちはたかだか30分走るために、なんで朝の6時から練習するんだと。歯車はかみ合わなかったです」