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「お前の髪の毛も今日限りだな」山梨学院大学を史上最速で箱根駅伝に導いた“愚直な練習”とは?「樹海の中を走ったことも」【創部2年目の秘話】

2023/12/23
予選会で箱根駅伝初出場を決めて歓喜する学生たちは上田監督を胴上げした
無名の大学で出会った26歳の若き指導者と学生たち。4年で箱根駅伝に出場するという無謀な計画を、わずか2年で現実のものにできたのはいったいなぜなのか。当時を知る3人の証言で浮かび上がる名門の黎明期。

 創部2年目のチームを記憶の片隅から引っ張り出し、季節に合わせて鍋に例えた。

「寄せ鍋だけど肉は入っていない。本当の意味での寄せ集め。あれでどうやって行けたんだと。言われてみれば不思議だね」

 上田誠仁は当時27歳。監督も若ければ、チームも若かった。創部2年目の山梨学大がほぼ1年生のみの布陣ながら、史上最速で箱根駅伝出場を果たしたのは1987年大会でのことだった。もちろん粒ぞろいのルーキーがいたわけではない。「肉なし」とは、エース級がいなかったことを指す。

上田は現役時代、順天堂大学で5区のスペシャリストとして活躍。現在は山梨学院大学陸上競技部の顧問として中距離部門を指導する Nanae Suzuki
上田は現役時代、順天堂大学で5区のスペシャリストとして活躍。現在は山梨学院大学陸上競技部の顧問として中距離部門を指導する Nanae Suzuki

「私もまだ監督2年目ですから、スカウトで良い選手が取れるわけがないんです。5000m16分台の選手とか、他の大学を落ちた子。デコボコの集団でしたよ」

 落ちこぼれ集団が常連校を打ち負かし、わずか2年で箱根出場の夢を叶える。漫画のような成長譚は1本の電話から始まった。上田の母校である順大の澤木啓祐から、「新たに箱根を目指す大学がある。お前を推薦したい」と監督打診の話があったのだ。当時、上田は郷里の香川県で教職に就いていたが、駅伝のイロハを教わった恩師の誘いを断るわけにはいかなかった。

 だが、いざ大学のある甲府に来てみると、想像を絶する環境が待っていた。寮はなく、専用のグラウンドもない。選手は8人かき集めたが、すぐに4人が辞めた。すでに存在した同好会から2人の上級生が加入したが、1人はマネージャーに転身した。実質、選手5人からのスタートだ。一緒に走ってみると、監督が一番速かった。

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photograph by Getsuriku

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