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「阿修羅・原を解雇しました」天龍源一郎と最強タッグ出場、川田利明“大抜擢”のナゼ?「デビュー205連敗」の男が全日本の救世主になるまで
posted2023/12/08 11:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
「全日本プロレスは昨日付けで阿修羅・原を解雇しました」
今から35年前。1988年の掉尾を飾る全日本プロレス「’88世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕戦の11.19足利市民体育館大会。当時、(関東地方で)毎週土曜日夜10時30分から放送していた日本テレビ『全日本プロレス中継』は、通常番組開始と同時に「日本テレビスポーツのテーマ」をバックに試合のダイジェストが流されていたが、この日は重苦しい雰囲気の中、総帥ジャイアント馬場が記者たちに向かって「阿修羅・原解雇」を伝える衝撃的な映像から始まった。
多くの視聴者がテレビの前で唖然とする中、馬場は「生活態度というのが(問題があり)、今後会社なり多くの人たちに迷惑をかけることをやりかねないんでね。いい選手ではあったけれど……」と、淡々とした口調で原解雇の理由を語った。「最強タッグ」開幕戦当日という発表のタイミングが、事態の深刻さを物語っていた。
阿修羅・原はこの前年、’87年6月に全日本マットの活性化を目指し、天龍源一郎とともにレボリューション(天龍革命)をスタート。地方巡業でも一切手を抜かないファイトはファンの支持を集め、長州力らが新日本にUターンして危機に陥っていた全日本を救い盛り上げてきた立役者であったが、かねてから金銭問題を抱えており、ついに全日本も庇いきれなくなっての苦渋の決断だった。
この阿修羅・原解雇を受けて、「最強タッグ」の天龍のパートナーは、当時天龍同盟の若手だった川田利明を抜擢。この時、川田はデビュー7年目。前座や中堅のポジションが長かったが、一気に全日本プロレスの最前線の闘いに飛び込むこととなった。
全日本で「デビュー以来205連敗」
川田利明は高校卒業後の1982年、足利工業大学附属高校レスリング部1年で先輩の三沢光晴を追うように全日本プロレスに入門。三沢と同様にアマチュアレスリング国体優勝の実績を提げてのプロレス入りだったが、この時の全日本は先輩となる若手がたくさんいた時期。三沢以外にも越中詩郎、後藤政二(ターザン後藤)、さらに崩壊した国際プロレスから冬木弘道、菅原伸義(アポロ菅原)がおり、川田はいちばん下の後輩。そのためデビュー以来、205連敗という記録が残っている。
川田が「いちばん下」という状況は’85年に小川良成が入門してくるまで約3年間にも及んだ。そして’85年11月、ようやく川田に海外遠征の話が持ち上がる。若手プロレスラーの海外武者修行といえば、出世街道を歩み始めるきっかけとなるものだが、当時のアメリカはWWE(当時WWF)の全米進攻がすでに始まっており、各州のローカル団体が次々と潰れていった時期。ここでも川田の苦闘は続くこととなる。