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「阿修羅・原を解雇しました」天龍源一郎と最強タッグ出場、川田利明“大抜擢”のナゼ?「デビュー205連敗」の男が全日本の救世主になるまで 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2023/12/08 11:00

「阿修羅・原を解雇しました」天龍源一郎と最強タッグ出場、川田利明“大抜擢”のナゼ?「デビュー205連敗」の男が全日本の救世主になるまで<Number Web> photograph by AFLO

1986年の川田利明。全日本では「デビュー205連敗」の記録が残っている

 アメリカ国内ではなかなか試合が組まれない中、川田はアメリカ在住の日本人レスラー佐藤昭雄のブッキングでカナダに転戦したが、モントリオールでワーキングビザがないことが発覚。当時、新日本は海外遠征に出る若手のために会社がビザ取得や海外提携団体へのブッキングも代行していたが、全日本はそういったケアがなく、現地のプロモーター任せだったため起きた事態だった。

 これによって川田は’86年12月、日本に強制送還。突然、全日本マットに戻ってきた川田に対して華やかな凱旋帰国の舞台など用意されておらず、試合順も海外遠征前と同じ第1試合か第2試合。おまけに全日本は相変わらず新人が不足していたので、ふたたび馬場の付き人も任されることとなった。

 その後、’87年に小橋建太、菊地毅、北原光騎が入門したことで、付き人こそ解放されたものの前座のポジションは変わらず。そんな状態が続く中、変わっていったのは全日本自体の状況だった。

燻っていた川田の運命を変えた乱闘

 ’87年3月に長州が配下の選手を大勢引き連れて全日本を離脱し、新日本へとUターン。そこに危機感を抱いた天龍が同年5月16日、栃木・小山ゆうえんちスケートセンターでの試合後、「ジャンボの背中は見飽きたし、輪島(大士)の御守りにも疲れた」と発言。鶴田との鶴龍コンビ解散、そして全日本正規軍離脱をほのめかし、その後、総帥ジャイアント馬場に直談判。これが認められるかたちで6月4日、天龍は阿修羅・原と龍原砲を結成し、全日本活性化のために鶴田や輪島らとの激しい闘いをスタートさせた。天龍革命の始まりである。

 ここから天龍と原は、巡業も鶴田らと同じバスには乗らず別行動を開始。しかし、全日本から別のバスを用意されるなどのサポートはなかったため、時には在来線の列車を乗り継いで会場入りし、連日、30分近い激闘を展開した。同時期の新日本は、猪木率いるナウリーダーと長州、藤波、前田らニューリーダーの新旧世代闘争が勃発し大きな話題を作っていたが、全日本は龍原砲がテレビ放送がない地方興行でも鶴田、輪島らと熱い闘いをすることで、草の根的にファンの支持を獲得していった。

 そんな天龍革命初年度の熱き夏の終わり頃、前座や中堅で燻り続けた川田がついに行動を起こす。8.21宮城県スポーツセンター大会のメインイベント、天龍&原vs鶴田&ザ・グレート・カブキ。カブキがゴング前に天龍の顔面に毒霧を浴びせ、意表を突かれた天龍が場外に転げ落ちると、突如、川田がリングインし鶴田に襲いかかっていった。すると2度目の海外遠征から帰国したばかりのサムソン冬木(冬木弘道)もリングに上がり、今度は川田と乱闘を開始。

 そのまま急遽、鶴田&カブキ&冬木vs天龍&原&川田の6人タッグに変更され、試合は鶴田がバックドロップから体固めで川田にフォール勝ちを収めたが、この行動によって川田の注目度が一気に増すこととなったのだ。

【次ページ】 ゼブラ模様のロングタイツ、頭にバンダナを巻いて…

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