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羽生善治「大山康晴先生は晩年も迫力と強さが」と感服、69歳死去直前の名人戦PO進出…竜王・谷川浩司戦での“大山将棋の神髄”とは
posted2023/11/29 11:02
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
Keiji Ishikawa/Kyodo News
1973年(昭和48)2月に大山康晴王将は王将戦で中原誠名人に敗退し、14年ぶりにタイトルが無冠となった。50歳の大山に引退説が流れたが、「まだまだ指せる」とそれを否定した。
実際に大山九段は、1974年1月に十段戦(竜王戦の前身棋戦)で中原十段を破り、1年後にタイトルを奪還した。同年の名人戦でも中原名人に挑戦し、「中原さんを破るのは私以外にいない」と宣言した。勝負は3勝3敗と拮抗して第7局に持ち込まれた。大山を心情的に応援するファンは多かったが、敗れて名人復位は成らなかった。
1975年1月に大山棋聖は棋聖戦で米長邦雄八段を下し、節目の「百回優勝」を成し遂げた。写真は、都内ホテルで開催された祝賀会の光景。大山(中央)の隣は昌子夫人。大山は「故郷の倉敷にいる100歳の祖母の年齢に追いつきました」と挨拶した。
1974年7月に開かれた日本将棋連盟の臨時総会で激震が走った。事の発端は新将棋会館の建設問題で、推進する理事会(会長・加藤治郎八段)の資金計画や事務体制に、有力棋士たちは危機感を抱いた。大山十段と升田幸三九段も同じ考えで一致し、手を結ぶことで合意した。
総会の場では大山、升田らが理事会に総辞職を迫った。両巨頭に膝詰め談判されては、理事会はもはや手立てがなく、加藤会長は将棋連盟の分裂を危惧して総辞職に応じた。新理事会の会長に塚田正夫九段が就任した。副会長に大山十段、中原名人、専務理事に二上達也九段、理事に米長八段らが就いた。7人の理事が名人、A級棋士という超大型内閣で、升田は相談役として閣外協力した。
大山と升田が過去の確執を乗り越えて協調したのは、将棋連盟という運命共同体の意識、兄弟弟子の絆があったと思う。両者は1975年正月には明治神宮に連れ立って参拝し、将棋界の隆盛を祈願した。
写真は、1974年の秋に行われた囲碁大会の団体戦の光景。升田(右)と大山は、将棋連盟チームとして一緒に参加した。
「頭から湯気を上げて頑張っている」米長流ジョーク
1976年7月に名人戦の契約金をめぐって、主催者の将棋連盟と朝日新聞社との交渉が決裂した。将棋連盟は同年9月、名人戦の仮契約を毎日新聞社と結んだ。大山は毎日、升田は朝日の嘱託という立場の違いがあった。名人戦主催者が朝日から毎日に移行したことで、両者の蜜月関係は終わった。