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羽生善治「大山康晴先生は晩年も迫力と強さが」と感服、69歳死去直前の名人戦PO進出…竜王・谷川浩司戦での“大山将棋の神髄”とは 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph byKeiji Ishikawa/Kyodo News

posted2023/11/29 11:02

羽生善治「大山康晴先生は晩年も迫力と強さが」と感服、69歳死去直前の名人戦PO進出…竜王・谷川浩司戦での“大山将棋の神髄”とは<Number Web> photograph by Keiji Ishikawa/Kyodo News

今もなおトップ棋士の1人である羽生善治九段も、大山康晴十五世名人の“強さのピーク期間”継続には敬意を隠さない

 大山は新将棋会館の建設に当初は消極的だったが、やがて推進派に変わった。建設資金の調達は主に募金で行う方針を立て、先頭を切ってそれを実践。全国を飛び回って精力的に募金活動を展開していった。米長はそんな大山を「カツラの先生(大山の頭には髪がふさふさと生えていて、光頭はカツラという米長一流のジョーク)が頭から湯気を上げて頑張っている」と表現した。

 1976年5月に東京・千駄ヶ谷に将棋会館が新たに建設された。1981年7月には大阪・福島に関西将棋会館が建設された。いずれも大山が成し遂げた功績だった。

羽生が語った「私はその領域にまだいっていない」

 大山は1976年11月に現役で十五世名人に襲位し、同年12月に将棋連盟の会長に就任した。以後の円熟期には、盤上盤外でずっと活躍していた。

 升田実力制第四代名人は「60歳名人」を標榜していたが、1979年に現役引退を61歳で表明した。一説によると、足の具合が悪い升田が椅子での対局を将棋連盟に要望したが、大山会長に拒否されて引退を決めたという。ただ下肢だけでなく体調も悪かったので、現役続行は現実的に難しかったと思う。

 一般的に言うと、棋士は40歳を過ぎると公式戦の成績は低下し、50歳以降はさらに衰えが目立ってくる。1996年(平成8)に前人未到の「七冠制覇」を達成した羽生善治九段でも、48歳でタイトルが無冠になって53歳の現在に至っている。また、順位戦では51歳でA級から降級した。

 大山十五世名人の50歳以降の公式戦の成績を紹介する。タイトル戦に登場は計22期。そのうち棋聖7連覇を含めて通算11期もタイトルを獲得した。1973年度から1991年度までの年間勝率は、7割台・2期、6割台・7期で、4割台の負け越しは4期だけだった。A級在位は死去した1992年まで維持した。

 羽生九段は2019年(令和1)6月に公式戦で通算1434勝を挙げ、大山の通算勝利を超えて歴代1位となった。しかし「大山先生は60代の晩年でも強さと迫力があり、私はその領域にまだいっていないと思います」と語った。大山が50歳以降に挙げた公式戦の成績と比較すると、羽生の思いはよくわかる。

筆者が実際に対局して感じた“軟体動物”のような強さ

 大山は順位戦でA級から降級したら、現役を引退すると公言していた。1990年のA級順位戦の最終戦では、桐山清澄九段に敗れると降級する危機に陥った。そんな深刻な対局でも平常心で臨み、大山が勝ってA級残留を決めると――将棋会館の大盤解説会の来場者から拍手が巻き起こり、中には涙ぐんだ人もいた。

 私こと田丸は六段時代の1979年に大山十五世名人と公式戦で初めて対戦した。

【次ページ】 谷川竜王相手に見せた“大山将棋の神髄”とは

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