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藤井聡太も達成の全冠制覇者・大山康晴だが…「見込みがない。田舎にさっさと帰りなさい」“兄弟子”升田幸三との確執が生まれるまで
posted2023/11/29 11:00
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by
JIJI PRESS/Keiji Ishikawa
大山康晴は1923年(大正12)に岡山県浅口郡(現・倉敷市)西阿知町で長男として生まれた。
大山は将棋を6歳で覚えた。その年の夏に腸チフスにかかって自宅で療養していた頃、近所の人が見舞いに来て将棋を指してくれた。すると熱が下がって楽になったが、後で熱が上がった。翌日にその人と将棋を指すと、また熱が下がった。
12歳にして大阪へ…《若竹ののびる勢い天をつく》
そんな不思議なことがきっかけとなり、大山はアマ有段者の人から本格的に指導を受けた。毎日3時間も習い続けると、めきめきと上達した。ただ小学4年のときに学校の成績が落ちてきたため、担任の教師に「将棋をやめろ」と命令された。大山は仕方なく従ったが、好きな将棋を指せない辛さで、沈んだ表情をずっと浮かべていた。その様子を心配した父親が小学校に行って教師に掛け合うと、将棋の再開を許された。さらに新任の教師は「どの道でもいいから、日本一になりなさい」と励ましてくれた。
大山は10歳でアマ初段の実力をつけ、地元の将棋大会で何回も優勝した。棋士になりたいと強く思うようになり、父親も後押ししてくれた。そしてある縁によって、大阪に住む木見金治郎八段の門下に入ることが決まった。
1935年(昭和10)3月。大山は父親、その知人の3人で山陽本線・西阿知駅を出発し、大阪に向かった。駅前には後援者や小学校の友人らが多く集まり、《若竹ののびる勢い天をつく》などと書かれた幟を掲げて見送った。
「君は見込みがない。田舎にさっさと帰りなさい」
大山は1935年の春、大阪市北区老松町(現・西天満)にあった木見八段の自宅に12歳で住み込んだ。当時の兄弟子は、大野源一(九段)、升田幸三(実力制第四代名人)、角田三男(八段)らがいた。
2階の八畳が内弟子たちの部屋だった。師匠夫人のふさ子は、四段重ねの箪笥の引き出しのひとつを開けてくれ、「大山、ここに自分の持ち物を入れなさい」と言った。大山は唯一の城ができたようでうれしさを感じつつ、大切な着物や袴などを収めた。
しかし入門した翌日――5歳年上の升田二段に、駒落ちで厳しい稽古をつけられた。