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ラグビーPRESSBACK NUMBER
「兄貴ごめん、蹴られへんかった」あの日から李承信が変わった…大学中退、22歳でラグビーW杯 “異色の近道”のウラに2人の恩人
text by
キム・ミョンウKim Myung Wook
photograph byKiichi Matsumoto
posted2023/09/26 17:03
練習後は居残り、キックを積み重ねてきたSO李承信。W杯で出番はやってくるか
「承信を3年間指導した元大阪朝鮮高ラグビー部監督の呉英吉氏(OKファイナンシャルグループラグビー団監督兼韓国代表コーチ)が、大学ラグビーで悩む教え子の状態を心配していたんです。帝京大学が選手権で敗れたことへの自責の念や自分が思うラグビーとの間で葛藤していたと思うのですが、大学を辞める時に呉氏が最初に連れていったのは、オモニ(母)のお墓でした。そのあとは気晴らしするためなのか、神戸の王子動物園に行って話をしたそうです。そのあと電話がきてメンタルに関する病院の先生も紹介するという話もしてくれていたんです」
亡くなった母への報告で心を落ち着かせた承信だが、精神状態は極限にまで達していた。自分がやりたいラグビーをするためには、世界でラグビーを経験しなければならないという危機感や焦りがあった。
東慶さんが息子が帝京大学を辞めるのを許したのは、呉氏からこう助言をされたからだった。
「承信はもう大学の枠の中じゃ収まらない。世界を見渡せば19、20歳でもプロでやって、大学に行く選手もいます。そういう考えのほうが彼には合っているんじゃないでしょうか」
長男の承記も、承信に幾度となくアドバイスも送っていた。
「ラグビーをしていたら本当にいろんな人間がいます。僕も法政大学ラグビー部時代に、関係がうまくいかずに病んでしまった選手を見てきたりしたので、そういうのを我慢してまでやるのも良くない。ほんまに意志はすごく強い。もし気持ちが弱かったら、どこに行ってもすぐ辞めて帰ってきていたでしょう。ラグビーに対する理解度が高くて、思い描いているスタイルがあって、それを曲げてまでやる必要があるのかって思っていたはずです。アボジ(父)も僕も家族といえども、他人だし、最後は自分で決めないといけないわけだから、やりたいことをやれと伝えました。結局、しんどいのは承信だったので、揺れている時ほど背中を押してやろうと思っていました」
NZ留学を決意も、コロナ禍で頓挫
帝京大学を辞めた理由は、「世界から離されていく」という焦燥感を拭いきれなかったからだ。そこで承信はニュージーランドで世界のラグビーを学ぶ決意をする。万端な準備を整えていたが、懸念していたコロナ禍で渡航できないことが分かり、留学は頓挫する。所属がないことから、ラグビーができる環境はなく、どん底に突き落とされた。ここが2つ目の人生の転機だ。
そんな状況を察した帝京大学は戻れる体制を整えていたというが、承信は「ラグビーは僕にとって人生の一部」と周囲を説得した。ここでも一度決めたことは曲げることはなかった。黙々と一人、実家近くの公園でボールを持って練習し、遊具を使ってトレーニングしたり、浜辺の砂浜を走ったりした。こうした生活が半年は続き、当時は「何度もラグビーをやめようと思った」とも振り返っている。
そんな中で救いの手を差し伸べたのは、幼少期に通っていた兵庫のラグビースクールの元コーチで、現在はスティーラーズのチームディレクターを務める福本正幸氏だった。
チーム練習後のグラウンドの使用を許可するなどして、2020年に神戸へ正式加入と至った。大学中退の選手がリーグワン入りするという“異例”の道だったが、この選択が日本代表入りの足掛かりになる。
東慶さんは「福本さんは母を亡くした当時の承信のこともよく知っているからこそ、選手という目線よりも親心として今後の人生を気遣ってくれていました」と振り返る。
当時は誰も予想していなかった、急勾配な成長曲線。それも、承信を見守り、支えてきた人たちとの縁のおかげ。そして挫折しても諦めない強い信念があったからこそ、道が開けたのだろう。