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「壊れるような身体はしてないから」 長州力、天龍源一郎というスターを生んだ“2人の男”…アニマル浜口と阿修羅・原とは何者だったのか?
posted2023/08/08 17:05
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
「レスラーというのは一人でやっているわけじゃない。みんなで波を起こさなければいけない。ただ、全員で波を起こして、最後に乗る奴は一人。高い波に乗れるのは一人しかいない」
これは長州力が、自身のノンフィクション『真説・長州力 1951~2018』(田崎健太・著/集英社)の中で語った言葉だ。プロレスは個人競技ではなく、一人のスターを神輿に乗せて、周りが担ぐことで光らせ繁栄するジャンル。それを長州は“波”という独特の表現で言い表した。
波を起こす人間なくして、スターは生まれない。今から40年前の1983年夏。長州自身がその波に乗ってスターダムにのし上がる時、波を起こし、担ぎ上げてくれた人間がアニマル浜口だ。
長州力を“完成させた”のはアニマル浜口だった
長州はミュンヘン五輪代表レスラーながら、’74年のプロ転向後は長らく中堅で燻っていたが、’82年10・8後楽園ホールでの試合後、藤波辰巳に対し「俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」と造反することでブレイクのきっかけをつかむ。その翌年、新日本プロレス本隊を離れ反体制側に回った長州の相棒となったのが浜口だった。
浜口は所属していた国際プロレス崩壊後、’81年10月からラッシャー木村、寺西勇とともに「国際はぐれ軍団」として新日本に参戦。しかし、その立場はアントニオ猪木の引き立て役にすぎない屈辱的なもの。当時のプロレスブームに中で、欠かせないバイプレイヤーではあったものの猪木と国際軍団の抗争が下火になると、浜口もまた「このまま終わりたくない」という思いから、志を同じくする長州と合体した。
そして’83年6月に揃って新日本に辞表を提出すると、フリーとなり維新軍を結成。ここから長州はプロレス界の中心に躍り出て、どんどんトップに昇りつめていく。
長州はもともと直線的なファイトしかできない不器用な選手だった。それが長年、国際プロレスでラッシャー木村、グレート草津らのサポートを務め、マイティ井上、寺西勇と名タッグも組んできたタッグの名手である浜口というパートナーを得て、それまでのプロレス界になかった、スピード感溢れる試合を展開するようになった。“ハイスパートレスリング”と呼ばれた長州のスタイルは、浜口と組むことによって完成したのである。
この長州をサポートしながら突っ走った時代を浜口は「ぼくのプロレス人生の頂点だった」と語る。そして引退後、今度は愛娘である女子レスリングの浜口京子の全力サポートに回ったことは、多くの人が知るところだろう。