ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「壊れるような身体はしてないから」 長州力、天龍源一郎というスターを生んだ“2人の男”…アニマル浜口と阿修羅・原とは何者だったのか?
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2023/08/08 17:05
長州力とアニマル浜口のタッグ
“過激なプロレス”が全日本を変えた
昭和のプロレスでは「地方巡業になるとレスラーが露骨に手を抜く」と言われることがよくあり、事実、テレビ中継がゴールデンタイムに放送されていた時代の地方興行は“顔見せ”の意味合いが強かった。しかし、’80年代後半にプロレス中継の放送時間帯が深夜帯に追いやられるようになっていくと、ライブに来たお客さんの心をつかみ、また会場に来てもらうことこそがプロレスの生命線となっていった。
ましてや全日本プロレスは、’87年春に長州力らが大量離脱して新日本に移籍したことでピンチに陥っていた。そんな時に立ち上がったのが、その3年前にシングルで激闘を展開した天龍と阿修羅・原だった。
観客を満足させる試合をするためには、レスラー全員の意識改革が必要。天龍と原は、’87年6月に龍原砲を結成して全日本活性化を目指した「天龍革命」をスタート。当時、地方ではエアコンが効いていない会場も多い中、どんな小さな地方会場でも毎試合全力で向かっていくことでジャンボ鶴田らを目覚めさせ、全日本の試合を“過激なプロレス”に変え、人気団体としていったのだ。
私利私欲を捨てた男たち
天龍はのちに「阿修羅がいなかったら、レボリューション(革命)はできなかった。あの龍原砲で、阿修羅と全力で駆け抜けた時代が俺の青春。いつも試合後に飲んでいた、当時発売されたばかりのアサヒスーパードライの味は忘れないよ」と語っている。
アニマル浜口と阿修羅・原。二人に共通しているのは、自らを犠牲にしてでも、パートナーである長州、天龍を“男”にすることに全力を傾けていたこと。プロレスラーなら誰しもトップに立ちたいという欲があるものだが、その私利私欲を捨てたことで、プロレス全体を輝かせるスターが生まれた。
昭和のプロレスファンは盛夏を迎えるたびに、1983年と1987年の暑い夏を熱き闘いで駆け抜けた長州力&アニマル浜口、天龍源一郎&阿修羅・原の姿を思い出すのである。
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