熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
怒れる闘将ドゥンガ59歳…実は優しかった「貧民街で石を投げつけられたよ」苦労人の過去「日本の文化に強い関心を」〈ブラジルで直撃〉
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/07/16 11:00
ブラジルでの現地インタビューに応じてくれた闘将ドゥンガ
「練習も試合も、非常に強度が高かった。セリエAは実力が伯仲していて、厳しい試合の連続だった。生活面での戸惑いもあった。冬は寒いので午後1時に試合が始まり、選手たちは午前10時にパスタを食べていた。でも、ブラジルではパスタは午後か夜に食べるもの。私だけサンドイッチを食べたが、試合の終盤になると空腹で動けなくなる。それでは困るので、無理をして午前中にパスタを食べた。
私がイタリアへ行っても、イタリアが私に合わせてくれるわけじゃない。どの国にも固有の文化、習慣、考え方があり、こちらが努力して適応しなければならないことを知った。その後、ドイツ、日本でプレーしたときも同じように考えて適応に努めた」
1990年イタリアW杯予選も順調で主力となったが…
――セレソンでは、1989年にリオで開催されたコパ・アメリカ(南米選手権)に出場し、アルゼンチン、ウルグアイを倒して優勝します。
「翌年のW杯イタリア大会を控えた大事な時期で、チームも自分もいいプレーができた」
――コパ・アメリカが終わって1週間後、折しも南米遠征中だった日本代表とリオで対戦します。日本は監督が横山謙三で、CB井原正巳、FW長谷川健太らが出場していました。このときの日本代表の印象は?
「スピードと運動量があり、テクニックもまずまずだったが、プレーが淡白だった。選手はまだアマチュアで、セレソンと対戦するだけで光栄と感じているという印象を受けた」
――その後、1990年W杯南米予選の4試合すべてに先発。セレソンは、チリとベネズエラを退けてW杯出場を決めます。
「GKタファレル、右SBジョルジーニョ(後に鹿島アントラーズ)、FWカレッカ(後に柏レイソル)ら錚々たる選手と一緒にプレーでき、結果も出せて嬉しかった。セレソンは1990年W杯で20年ぶり4度目の優勝を目指しており、ここまでは至って順調だった」
◇ ◇ ◇
順調だったはずのドゥンガのキャリア。しかし彼がとてつもない批判の嵐にさらされるのは、90年イタリアW杯でのことだった。
<#2につづく>
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