熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
怒れる闘将ドゥンガ59歳…実は優しかった「貧民街で石を投げつけられたよ」苦労人の過去「日本の文化に強い関心を」〈ブラジルで直撃〉
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/07/16 11:00
ブラジルでの現地インタビューに応じてくれた闘将ドゥンガ
「現在はそんなことはないと思うが、当時は他のクラブも同様だった」
――そのような苦労が実って、プロ契約にこぎつけたわけですね。
「1980年、U-17ブラジル代表に選ばれ、ベネズエラで行なわれた国際大会に出場した。同時期にトップチームが欧州遠征に出ていて、『U-17代表の遠征が終わったら合流するように』と言われた。
そこで、『欧州で良いプレーができたら、プロ契約をする』という約束で欧州遠征に参加し、帰国後、プロ契約を勝ち取った。ただ、1982年にデビューしたが、出場機会は限られていた」
1984年、日本で見聞きしたことすべてが興味深かった
――1983年には、U-20ブラジル代表に選出されます。
「年初にボリビアで行われたU-20南米選手権で優勝し、6月にメキシコで開催されたワールドユースも制覇した。同世代の世界トップの選手と対戦したことは貴重な経験となったし、優勝したことは自信になった」
――1984年には、インテルナシオナルの一員としてキリンカップに出場。ユニバーシアード日本代表、アイルランド代表などを倒して優勝します。
「このときの体験が、後に日本でプレーする一因となった。日本各地で4試合を戦ったが、日本で見聞きしたことすべてが興味深かった。以来、日本の文化や歴史に強い関心を抱くようになり、日本に関する本を読んだり日本映画を見たりするようになった」
――1984年後半、コリンチャンスへ移籍し、1986年はサントスに在籍。19歳だったカズ(三浦知良)とチームメイトで、公式戦で1試合、練習試合で3試合、一緒にプレーしました。当時のカズの印象は?
「若くて華奢だったが、スピードとテクニックがあった。まだ試合経験が不足していたが、将来性豊かな選手だと思った。それから20年くらいして日本で彼と対戦するとは想像できなかったけどね」
フィオレンティーナ移籍、23歳で初のセレソン
――そして1987年、フィオレンティーナ(イタリア)への移籍が決まりましたが、すぐには入団しませんでした。
「当時はセリエAの外国人枠が2人で、すでに他の選手で埋まっていたから、この年の前半はバスコへ、後半はピサ(イタリア)へ貸し出された」
――バスコ在籍中の5月、23歳でセレソンに初招集され、ロンドンで行われたイングランド戦に出場します。
「セレソンでプレーするという子供の頃からの夢が叶って、本当にうれしかった。両親も大喜びしてくれた。セレソンでの初舞台が聖地ウェンブリー・スタジアム(旧)だったことにも感激した」
――1988年7月、フィオレンティーナに加わります。当時のセリエAとクラブの印象は?