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母国イランの英雄が“謎の死”を遂げて「次に狙われるのは俺だ」…亡命先のアメリカで“偽りの母国愛”を演じたアイアン・シークの壮絶人生
posted2023/07/05 17:00
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph by
Getty Images
6月7日、元プロレスラーのアイアン・シークが亡くなった。享年81。死因は明らかにされていないが、以前は薬物中毒患者であり、腎臓の疾患も患っていたので驚くことはなかった。
本名はホセイン・コシロ・アリ・バジリ。母国イランではナショナル王者になったこともあるほど、腕の立つアマチュアレスラーだった。
国王の逆鱗に触れた英雄タクティの死
イランのスポーツに目を向けてみると、サッカーが一番人気ながら、国技はレスリングで特にフリースタイルが盛んだ。自国開催の国際大会ともなれば1万人以上の観客が集まり、サッカーの応援でもお馴染みのブブゼラがリズミカルに鳴り響く。首都テヘランにはレスリング博物館もある。
半世紀以上前、若きバジリは、長年イランを統治したパーレビ国王のボディガードを務めるほど信頼されていた。しかしながら、当時バジリが常に行動を共にしていた、イラン初の五輪金メダリストで国民的英雄だったゴラムレザ・タクティが国王に嫌われたことで状況は一変する。
ある国際大会で優勝したタクティは、いつものように結果報告のためにパーレビ国王のもとを訪れた。国威発揚に尽くしたタクティに、国王は褒美を授けようとした。
「家、車、金……。何が欲しい?」
当時の国民から国のニューリーダーになることを期待されていたタクティは、自らの富ではなく国民の生活向上を望んだ。
「何も要りません。その代わり、舗装された道路や、病院や学校を作っていただきたい」
その一言が国王の逆鱗に触れ、その後タクティは謎の死を遂げる。「自殺」という大本営発表を信じる国民はいなかった。タクティの死をきっかけに、イランでは「シャー(王)に死を」というプラカードを掲げたデモが発生した。
そして「次に狙われるのは俺だ」と悟ったバジリは、1970年にアメリカへ亡命した。
中東のレスリング大国で14歳から毎日マット練習を欠かさなかった腕はホンモノだ。亡命した翌年の1971年には、AAU(全米体育協会)選手権で早くも優勝している。その腕を見込まれ、1972年のミュンヘン五輪と1976年のモントリオール五輪のアメリカ代表チームのコーチ補佐としても雇われている。