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母国イランの英雄が“謎の死”を遂げて「次に狙われるのは俺だ」…亡命先のアメリカで“偽りの母国愛”を演じたアイアン・シークの壮絶人生
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph byGetty Images
posted2023/07/05 17:00
在りし日のアイアン・シーク。反米ギミックのヒールレスラーとして活躍し、2005年にはWWE殿堂入りを果たした
しかし、異国の地でアマチュアレスリングに携わるだけでは食べていけなかったのだろう。1972年にはプロレスラーとしてもデビューする。バジリの場合、プロレスラーになりたかったというより、そうするしかアメリカで生活する術がなかった。
米大使館人質事件でイランへの憎悪感情が高まり…
イラン人プロレスラーのパイオニアとなったバジリだったが、デビュー当初は体重80kg程度。ヘビー級揃いのアメリカマット界では小柄な部類だった。しかしながら、控室では「アイツを怒らせたら、誰でも投げ飛ばす」という噂が立つほど恐れられた存在だった。
もしバジリが20歳若かったら、総合格闘技に挑戦していた気もする。1976年、全日本プロレス参戦のために来日したときには、道場マッチで木村政彦の一番弟子だった岩釣兼生を下からの腕関節で仕留めたという逸話も残っている。
もっとも、強いだけで生き残れる世界ではない。ファイトマネーも微々たるものだったので、新人時代のバジリはアメリカ中を駆け回りながらリングの運搬や組み立てなどの裏方もこなさなければならなかった。リング屋もやりながら前座でファイトしていたという境遇は、マシン軍団を率いた悪役マネージャーとして名を馳せた将軍KYワカマツ(若松市政)の新人時代と重なり合う。
転機となったのは、バジリの実力を大いに買っていたAWAという当時の全米主要2団体のひとつの長バーン・ガニアの妻の一言だった。
「いまの地位に満足しているの? 中東出身なんだから、首長(シーク)を名乗れば?」
プロレスラー「アイアン・シーク」が誕生した瞬間だった。改名当初は“アラビアの怪人”ザ・シークの二番煎じと見られていたが、全世界を揺るがす大事件が追い風となった。1979年11月4日、イランの首都テヘランでイスラム革命防衛隊が率いる暴徒によって引き起こされたイランアメリカ大使館人質事件。アメリカ人外交官や海兵隊員ら計52名が人質になったことで、アメリカではイランに対する憎悪感情が一気に高まった。