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「スラム出身のテベスは…」W杯優勝アルゼンチン在住30年“若き日本代表に接した”日本人の忖度なし印象「それがいいとは言いませんが」 

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浅田真樹

浅田真樹Masaki Asada

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photograph byKiichi Matsumoto(JMPA)/Getty Images

posted2023/06/19 17:00

「スラム出身のテベスは…」W杯優勝アルゼンチン在住30年“若き日本代表に接した”日本人の忖度なし印象「それがいいとは言いませんが」<Number Web> photograph by Kiichi Matsumoto(JMPA)/Getty Images

アルゼンチンで再び試練を味わったU-20日本代表。カタールW杯優勝国アルゼンチン在住日本人の視線から見えるものとは

 静岡県磐田市出身で自身も根っからのサッカー少年だった田中さんが、アルゼンチンで働き始めることになったのは1993年3月のこと。1968年に始まった人生の半分以上を、すでに彼の地で過ごしたことになる。

まあ、それがいいとは言いませんが(苦笑)

 だとすれば、田中さんの日本人選手評が、自然と“アルゼンチン目線”になってくるのも無理はないのだろう。

「ボカなんて、スタンドのファンが常に殺気立っていますからね。下手なプレーをしたらただじゃおかないぞという、あのプレッシャーは日本とはちょっと次元が違う。そうなると、選手もやらざるをえない。僕らがやる草サッカーでさえ罵声が飛び交いますし、まあ、それがいいとは言いませんが(苦笑)、アルゼンチンのサッカー選手が、そういう環境で育っているからこその強さを身につけているのは確かなんです」

 そんな田中さんと南米とのつながりは、大学時代にさかのぼる。

 サッカー仲間でもあった友人の父親がブラジルの航空会社に勤務していた縁で、田中さんはその友人とともに「大学2、3、4年と、毎年2カ月くらい南米へ行っていました」。

 ブラジルにとどまらず、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイと巡るうち、次第に南米の魅力に引き込まれていった田中さんは、大学卒業後、ブラジルの食品を扱う商社に就職。「ブラジル駐在を狙って」の会社選びだったが、それがかないそうもないと知るや勤続2年弱で退職し、大学時代の南米旅行で知り合った人を頼りに、アルゼンチン行きを決意した。

カニーヒャのサイン会を手伝ったり

 いわば、田中さんをアルゼンチンへと導いた水先案内人。それが2022年に日本サッカー殿堂入りした、北山朝徳氏だった。

 日本サッカー協会の国際委員を長く務めた北山氏は、南米のサッカー界に精通し、日本との間に強い友好関係を築いた人物として知られる。南米の強豪国との親善試合が頻繁に組まれるのも、日本が過去にコパ・アメリカに参加できたのも、元をたどれば、北山氏の尽力あってのものだ。

 北山氏に「アルゼンチンで働きたいんです」と直談判した田中さんは、1992年キリンカップでアルゼンチン代表が来日した際、チームに同行していた北山氏に早朝電話で呼び出されると、「1日カバン持ちとして(クラウディオ・)カニーヒャのサイン会を手伝ったりして」初仕事を無事に遂行。その後、北山氏の会社(サッカー関連だけでなく、通関手続きなど広範な業務を行っていた)に正式採用され、翌年アルゼンチンへと飛び立った。

 2001年にチームスタッフとしてU-20日本代表に同行したのも、会社業務としての派遣だった。

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