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「お前、何やっとんじゃ! ちょっと来い!」阪神・星野仙一監督は赤星憲広に激怒しながらも笑顔だった?「最初からレギュラーに決めてたよ」 

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生島淳

生島淳Jun Ikushima

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posted2023/06/08 17:00

「お前、何やっとんじゃ! ちょっと来い!」阪神・星野仙一監督は赤星憲広に激怒しながらも笑顔だった?「最初からレギュラーに決めてたよ」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2003年に阪神タイガースを18年ぶりのリーグ優勝に導いた星野仙一監督。怒れる闘将の人身掌握術に迫った

 星野とすれば駒が揃った手応えがある。ケガ人を出さないように調整を進めていった結果、開幕ダッシュにつながり、7月8日にはマジックを点灯させるという圧倒的な強さを生み出した。井川も勝ち星を伸ばしていったが、連勝中は散髪をしなかったため、髪もどんどん伸びた。そうしたことにも監督はノータッチである。

「監督はマスコミを通して、僕のことをエースとしてだいぶ持ち上げてくれました。いちばん褒められたのは、ローテーションを中4日で回って20勝を挙げた時でしたかね。怒られたのは、神宮のスワローズ戦で打ち込まれてロッカーで普通にしていたら『もっと、しみじみせい』と言われたのを覚えてます(笑)」

 井川はエースとしての「心得」を星野から説いてもらった記憶が強い。

「マスコミを上手に使われる監督さんでしたが、本当に大事なことは“直”で来ます。打者を追い込んでから打たれることがままあったので、その時は『浅いカウントは大胆に。追い込んでから丁寧に』と、甲子園のサロンで話してもらったことが印象に残っています。それとケアのことですね。『投手は1年で4歳も5歳も年を取り、すぐに寿命が来てしまうこともある。だから、ケアには時間を取るように』と言われました」

 星野は、充実期に入っていた井川をリスペクトし、調整を任せていた。

監督から『抑える気あるんか!』と怒られた

 反対に、育てなければならない選手には厳しく接した。'03年の優勝に大きく貢献したひとりに、左腕の吉野誠がいる。'00年に入団した時はオーバースローだったが、'02年のシーズン途中から横手投げに変身し、ブルペンの一角を支えた。

「忘れもしない'02年6月1日に二軍の岡田(彰布)監督と御子柴(進)コーチから『サイドスローに変えてみないか』と勧められました。実は野村監督時代にもサイド転向を打診され、その時は私が拒否をしまして(笑)。おそらく、星野さんが左のワンポイントを探していて、候補として挙がってきたのが24歳の僕だったと思うんです」

 なんと、投法を変えてから2週間後には一軍のマウンドに立っていた。劇的な変化である。

「高校時代(埼玉・大宮東高)、練習試合で初回に打たれて、監督からなんとかせいと言われ、サイドに変えて2回から9回までを抑えたことがありました。アマチュア時代の感覚を動員しつつ、葛西(稔)コーチがサイドスローだったので、メカニックのことを教わり、必死に投げました。

 二軍では打たれず、6月下旬には一軍で投げたんですが、打たれまして。監督から『抑える気あるんか!』と怒られ、『あります!』と答えると、『だったら、ブルペンで腕がちぎれるまでストライク投げてこんかい!』と言われて本当に試合終盤までブルペンでストライクを投げ続けたこともありました。監督は本塁打を打たれるのは構わないけど、四球はダメだと言ってましたね。それは、気持ちが逃げているからだと」

 星野が求める投手像が、この言葉から想像できる。逃げずに、ストライクを投げて立ち向かっていく投手が好きなのだろう。

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【続きを読む】雑誌ナンバーの記事が全て読めるサブスク「NumberPREMIER」内の「怖さより、深い優しさで」赤星、井川らが語る“星野仙一”の人心掌握術<阪神は「星野前」「星野後」で変わった> で、こちらの記事の全文をお読みいただけます。

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