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「巨人の王さんにまけた、お父さんのかたきを…」野村克也の息子・克則が誓った夢…伝説の中学野球チーム「港東ムース」が誕生するまで
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/05/05 17:02
1965年、戦後初の三冠王に輝いた野村克也と、その前年に55本塁打を放った王貞治。野村の通算本塁打数は王の868本に次ぐ歴代2位の657本
当時の野村は、野球評論家としてテレビや新聞で活躍する一方、全国を飛び回って講演活動に励んでいた。大阪市内での講演のわずか1時間後に三重県鈴鹿市内で別の講演が控えていたため、ヘリコプターをチャーターして移動したという逸話も残っている。
後に野村は、スケジュールを管理していた妻・沙知代に「オレを殺す気か」と音を上げたと、しばしば自嘲気味に語ることになる。
野村家に集った保護者たちは熱を帯びた口調で訴えかける。
「このままでは子どもたちがかわいそうだ。ここはぜひともひと肌脱いでもらって、野村さんの力で新チームを立ち上げてほしいんです。我々も協力は惜しみません。克則君のためにも、ぜひ!」
保護者たちの情熱に野村が折れた。講演活動をセーブしつつ、少年たちに自らの野球哲学を伝授してみるのも面白いかもしれない。実務面を取り仕切るべく、妻の沙知代がオーナーを務めることも決まった。
こうして、港東ムースは誕生する。
少年たちのために野村は巨人に頭を下げた
連盟からの後押しもあって、88年2月16日、リトルシニア野球関東連盟から正式に承認された。選手は着々と集まった。練習道具もそれなりにそろえた。野村のツテをたどって、プロ野球関係者たちから、さまざまな道具を譲ってもらったのだ。
問題は練習グラウンドだった。チーム結成から2週間は、黙々と駒沢公園をランニングするだけだった。そこで野村は動いた。巨人が使用していた多摩川グラウンドを使用できるように、読売巨人軍にかけ合って承諾を得たのである。
このとき、野村は選手たちにこんな言葉を残している。
「オレがジャイアンツに頭を下げるということが、どういう意味を持つことなのか、お前らにはわからないだろうな……」
少年たちにその真意は理解できなかった。しかし、このときから三十数年のときを経て、彼らはその言葉の意味を改めて知ることになる。
日本中の人気と注目を集めていたジャイアンツに憧れつつ、嫉妬にも似た反発も抱いていた。ほとんど注目されることのないパ・リーグ育ちの反骨心を武器に生きてきた野村がジャイアンツに頭を下げたのだ。その意味はとても重かった。
<続く>