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「巨人の王さんにまけた、お父さんのかたきを…」野村克也の息子・克則が誓った夢…伝説の中学野球チーム「港東ムース」が誕生するまで
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/05/05 17:02
1965年、戦後初の三冠王に輝いた野村克也と、その前年に55本塁打を放った王貞治。野村の通算本塁打数は王の868本に次ぐ歴代2位の657本
母の厳命「絶対にプロ野球選手になりなさいよ」
現役通算868本塁打を記録した王貞治と、657本の野村克也。
克則は「王さんにまけた、お父さんのかたきをと」るために、900本塁打を放つことを誓った。こうして、ますます野球にのめり込んでいくことになった。
引っ越しに伴って、小学4年生の頃には目黒東リトルに入団。卒業までの間、克則はこのチームで夢中で白球を追いかけた。
母・沙知代からは「ウソをつかないこと」、そして「礼儀正しくすること」を徹底的にしつけられた。しかし、克則が目黒西リトルに入団し、目黒東リトルに移籍してからは、さらにもう一つつけ加えられることになった。
絶対にプロ野球選手になりなさいよ―─。
異父兄弟である長男・克晃、次男・克彦はいずれもプロ野球選手になっていた。
克晃はヤクルトに入団し、克彦は広島東洋カープと日本ハムファイターズに在籍した。しかし、いずれも一軍で華々しい成績を残すことはできなかった。だからこそ、名捕手・野村との間に生まれた三男の克則に対する沙知代の期待も大きかった。
ちなみに、長男の克晃は団野村として、次男の克彦はケニー野村として、ともに後年、エージェントとなり、野球界に活動の場を見出すことになる。いや、その前に克晃、克彦はともに港東ムースにかかわることになるのだが、それは後述したい。
野村克也監督率いる「港東ムース」誕生
中学生になった克則は、そのまま目黒東シニアに在籍する。
しかし、チーム内では絶え間なくトラブルが起こっていた。原因は監督と保護者との関係悪化だった。克則が中学2年の冬、両者の対立は決定的なものとなり、克則も含めた新中学3年生が大挙してチームを去ることになった。
チームを辞める決意をしたのはいいものの、少年たちにとっては貴重な最終学年が宙ぶらりんとなってしまう。困り果てた保護者たちが野村家を訪れる。
プロ野球の世界で偉大な成績を残した野村克也の知恵を借りようと集まったのだ。