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「巨人の王さんにまけた、お父さんのかたきを…」野村克也の息子・克則が誓った夢…伝説の中学野球チーム「港東ムース」が誕生するまで
posted2023/05/05 17:02
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
BUNGEISHUNJU
名選手の子として生まれた野村克則
小学1年生の頃に父─野村克也─が現役を引退した。
当時、7歳だった野村克則は一緒に住んでいた従兄弟の影響で、夢中になってボール遊びに興じていた。プロ野球中継では巨人戦を中心に見ていた。いや、巨人戦だけが全国中継で日々放送されていたから、当時の子どもの多くはジャイアンツファンだった。
克則が好きだったのは中畑清だった。「絶好調男」「ヤッターマン」の異名を持ち、明るいキャラクターで喜怒哀楽を前面に押し出したプレースタイルに魅了されたのだ。
(僕も中畑選手のようになりたい……)
そんな思いを胸に、小学3年生の頃に、自宅近くの目黒西リトルに入団した。この頃、克則の夢は「背番号《19》をつけてプレーすること」だった。
背番号《19》─―。
言わずと知れた、現役時代の野村克也の背番号だ。中畑ファンでありながらも、父のことを尊敬していた。入団早々、克則は幼い希望を監督に告げる。その言葉を聞いた監督は諭すように言った。
「そんなに、その番号をつけたいのなら、一生懸命練習しなさい。ちゃんと見ていてあげるから、レギュラーになったら《19》をつけてもいいよ」
こうして与えられたのが、父の番号をひっくり返した《91》だった。
一日も早くレギュラーになりたい。そして背番号《19》を身につけたい。この日から、さらに克則の「野球熱」は高まっていく。
この頃、克則は「おとうさん、ぼくのゆめ聞いて」と題する作文を書いている。
お父さんは、いつもゆめを大きくもてといっている。
ぼくのゆめはリトルリーグでゆうしょうして、アメリカに行きたい。
わせだじつぎょうへ行きたい。
そして、こうしえんへ行きたい。
そして、ぼくが大きくなったら、プロ野球せんしゅになります。
プロ野球せんしゅになったら、巨人の王さんにまけた、お父さんのかたきをとって、王さんのきろくやぶります。
ぼくはお父さんが、野球界で一番えらい人だと思います。
ゆめホームラン900本。お父さん、ぼくに力をかしてください。
そしていつまでも元気でながいきしてください。