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野村克也52歳が河川敷で放った「百発百中のホームラン」…少年たちに“三冠王の実力”を見せつけた日「この監督についていけば必ず勝てる」

posted2023/05/05 17:03

 
野村克也52歳が河川敷で放った「百発百中のホームラン」…少年たちに“三冠王の実力”を見せつけた日「この監督についていけば必ず勝てる」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

現役時代の野村克也のバッティング(1967年)。本塁打王9回、通算657本のアーチをかけた打棒は引退から7年が経っても健在だった

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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「野村の教え」で全国4連覇を果たした、伝説の中学野球チーム「港東ムース」。球界を代表する“名将”と呼ばれる前夜、野村克也は中学生たちにどんな魔法をかけたのか――関係者の証言から野村と少年たちの濃密な日々を描くノンフィクション『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)より、一部を抜粋して紹介します。(全3回の2回目/#1#3へ)

「スイングが速くなれば、どんな速球にも対応できる」

 巨人軍の厚意で、毎週土曜日の午後2時から5時まで多摩川グラウンドの使用許可が下りた。また、野村の人脈を駆使して、火曜日と木曜日の午後6時から9時まで、神宮球場に隣接する室内練習場も使用できることになった。神宮球場を本拠地とするヤクルトには南海時代の後輩・松井優典がスタッフとして在籍していた。南海時代から野村に敬意を抱き、その後も深い関係を築くことになる松井の尽力によるものだった。

 日曜日には試合が行われ、それ以外の平日は田園調布の野村家の庭にネットを張って練習した。もちろん、フリーバッティングができるような広大な敷地ではない。

 基本は素振りを中心としたスイング指導で、順番にネットを使ったティーバッティングを行った。少年たちはひたすらバットを振り続けた。

 野村も根気強く少年たちと対峙した。黙々とトスを上げ続けた。

「バットを振らないとスイングは速くならないぞ。スイングが速くなれば、どんな速球にも対応できるようになるんだ」

 この頃の野村が何度も繰り返していたのは、こんな言葉だ。当時の野村は「スイングスピードを上げること」を少年たちに熱心に説いていたのだ。

河川敷で放った、野村の連続ホームラン

 目黒東リトルで克則とチームメイトだった稲坂祐史は興奮していた。

 チーム内のゴタゴタによる分裂劇で誕生した港東ムースという新たな所属先が、自分の想像以上に強豪チームとなる可能性を秘めていたからだ。元々、チーム成績は低迷していた。低迷していたからこそ、監督の指導方針や、采配、起用方法に対して保護者からの不満が爆発したのだった。

 しかし、今回のチームは「あの野村克也」が監督を務めるという。

【次ページ】 この監督がいれば、僕たちも全国優勝できるのでは…

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