プロ野球PRESSBACK NUMBER
「人間は、『無視、称賛、非難』の順で試される」野村克也は中学生たちをどう指導したのか? 臨機応変の対応に見る“名将たるゆえん”
posted2023/05/05 17:04
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
BUNGEISHUNJU
「おい君、ちょっと投げてみなさい…」
入団早々、神宮室内練習場でのことだった。
全選手が内野に集められて、ノックを受けていた。藤森もその中に交ざって軽快に打球を処理していた。ノックが終わり、次の練習に移行する際に野村の前を通り過ぎる。ブルペンの前でのことだった。
「おい……」
初めて、野村から直接、声をかけられた。
「おい君、ちょっと投げてみなさい……」
最初はまったく意味がわからなかった。ただ、野村の前を通り過ぎようとしただけだったのに、何の前触れもなく「投げてみなさい」と言われたからだ。
さっそく、ブルペンに入って藤森は力いっぱいボールを投げ込んだ。野村は黙ってそれを見ている。やがて、野村が口を開いた。
「君はピッチャーをやっていたのか?」
当然、野村は藤森の球歴などまったく知らなかった。
「6年生のときにはピッチャーでした」
その言葉を聞くと、野村は「君はこれからピッチャーをやりなさい」と静かに言った。他に何も説明はなかった。
(監督は、どうして僕がピッチャーだったってわかったのだろう?)
胸の内に小さな疑問が芽生えたけれど、「あの野村さん」から潜在能力を認められたようで藤森は嬉しかった。
この日から、彼はピッチャーとしての野球人生を本格的に始めることになった。
3年生の稲坂祐史のボールはめっぽう速かった。コントロールにばらつきはあったけれど、ミットを押し込む力は半端ではなかった。1年生の藤森にとって、「やっぱり3年生は違うな」と感じさせるのに十分な威力を誇る力強いストレートだった。
一方、藤森の投じるストレートは、祐史と比べるとかなり見劣りするものだった。しかしスピードはまったくないもののコントロールは抜群だ。ミットを構えた位置から寸分違わぬところに白球が収まっていく。野村がほれ込んだのも、まさにこの点にあった。