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WBC栗山英樹監督62歳が心酔「三原メモ」伝説の名将だが…巨人時代は色々モメてた?「三原脩vs水原茂の遺恨」が生まれるまで 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byJIJI PRESS/Takuya Sugiyama

posted2023/04/26 18:45

WBC栗山英樹監督62歳が心酔「三原メモ」伝説の名将だが…巨人時代は色々モメてた?「三原脩vs水原茂の遺恨」が生まれるまで<Number Web> photograph by JIJI PRESS/Takuya Sugiyama

栗山英樹監督が「三原メモ」を保有するなど心酔する三原脩とはどんな名将だったのか

 優勝はしたものの、差別待遇に不満を持った選手の間に「反三原」の機運が高まる。また前述したいきさつから球団幹部の間にも水原待望論が大きかった。水原茂自身は「選手として巨人に復帰する」ことを望んでいたが、反三原の選手たちに担ぎ上げられる形で、監督に就任。三原は「総監督」に祭り上げられる。

 翌1950年、プロ野球はセ・パ両リーグに分立したが、三原脩は「巨人軍総監督」という肩書こそあるがグラウンドには降りられず。ユニフォームを着ることもできず、背広を着こんで球団事務所があった讀賣新聞社の一室で碁を打って無聊をかこつ日々だった。

 三原はあまりのことに「読売新聞に記者として復帰させてほしい」と記者時代の先輩に訴えたものの、読売新聞側も冷たかった。

 屈辱と忍耐の1950年が終わって、三原脩は創設2年目の西鉄ライオンズに監督として迎えられるのだ。

「三原排斥事件」で巨人を追われた三原脩は、水原茂、そして巨人を「不倶戴天の仇」と見なすようになる。水原茂自身は三原脩に対してそこまでの遺恨はなかったが、次第にライバル心を抱くようになる。

巨人を追われてから人間として円熟した

 三原脩は技術面で、新田恭一理論など新しい打撃理論に理解を示し、選手個々の打撃スタイルを尊重した。また、単に勝利を追うだけでなく、大リーグ流の「お客さんが喜ぶ野球」も追求した。ある試合で、中心打者である青田昇がバントをすると「君が二番、八番を打つ打者だったら褒められたのかもしれん。でも、ベーブ・ルースが同じようなことをしたら、ファンは喜ぶだろうか? ファンの気持ちを考えてプレーしろ」と叱責した。

 端的に言えば、巨人監督時代の三原脩はマキャベリストの印象が強く、強引な手法も目立った。「無頼」という言葉も浮かぶ。

 しかし巨人を追われ、西鉄の監督になってからは人間的にも円熟味を増し、マネージャーとして優れた手腕も見せる。栗山英樹監督が師と仰ぐ「三原脩像」は、西鉄以降に完成したと言ってよい。

#2「西鉄以降編」につづく>

#2に続く
大谷翔平や宇田川優希らを生かす「遠心力野球」、2番近藤健介と「流線型打線」…三原マジックは“WBC栗山マネジメント”の源泉だった

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