Jをめぐる冒険BACK NUMBER

「カズに憧れていた」福田正博が今だから明かす30年前の本音…“賞金50万”で買った思い出のヴィトンのバッグ〈Jリーグ前夜の記憶〉 

text by

飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

PROFILE

photograph byNIKKAN SPORT

posted2023/04/24 11:00

「カズに憧れていた」福田正博が今だから明かす30年前の本音…“賞金50万”で買った思い出のヴィトンのバッグ〈Jリーグ前夜の記憶〉<Number Web> photograph by NIKKAN SPORT

三菱重工時代の福田正博。2部リーグでのスタートになったが、そこで出場機会を得たことが後の日本代表選出につながっていく

「今の子には理解してもらえないかもしれないけれど、サッカーは当時マイナースポーツで、スタジアムはボコボコのガラガラ。数年後にプロ化されるなんて、俺にはまったく想像できなかった。最後は古河と三菱で迷ったんだけど、中央大のOBがいないところがいいと思って三菱を選んだんだ。俺、そういうしがらみが苦手だから」

 当時の三菱重工は、大エースの原博実(現・大宮アルディージャフットボール本部長)が健在で、同じポジションの福田は出場機会を得られない可能性もあった。だが、そこまで深く考えていなかった。

「監督の大仁(邦弥/のちの日本サッカー協会会長)さんに口説かれて、じゃあ、お世話になりますって。でも、原さん以外に誰がいるのかも知らなかった。ただ、本社は丸の内だし、寮は成城だし、福利厚生はしっかりしてるし、中央大OBもいないし、いいじゃんって(笑)。それに三菱重工って普通の大学生はなかなか入れない会社だったから。終身雇用の時代だったし、俺に合ってるなって」

2部からのスタート「俺にとってはプラスに働いた」

 福田は89年春、三菱重工サッカー部の一員となったものの、思いもしない事態に見舞われる。三菱重工は86-87、87-88と2シーズン続けて3位だったが、88-89シーズンは勝ち点を伸ばせず、2部降格の危機に陥ったのだ。

「当時は秋春制だったから、新卒で春に入ってもすぐに出場できないんだ。加入が決まって2月にチームに合流したあたりから雲行きが怪しくなってきて、結局、2部に降格。今、板倉(滉)のいる(ボルシア・)メンヘングラードバッハに留学させてもらえるはずだったのに、2部降格の影響でなくなってしまった。なんだよ、古河に行けば良かったなあって(苦笑)。この年から勝ち点制が変わって、勝利は2だったのが3になった。三菱は守備的なチームで引き分けが多かったから、勝ち点が変わった影響を大きく受けてしまったんだ」

 こうして福田は新人として迎える89-90シーズンを2部でプレーすることになったが、実はここが運命の分かれ道だった。

 エースの原が肝炎によって戦線から離脱したこと、チームが2部に降格したことによって世代交代が進み、福田はレギュラーに抜擢された。さらに、監督が大仁から若い斉藤和夫(のちの浦和レッズ監督)に代わって練習内容がハードになり、福田は体のキレを増していく。

「結果としてこのシーズン、36点を取って得点王になって、1年での1部復帰の原動力になった。もし1部で戦っていたら、活躍できたかどうか分からない。2部だけど、これだけ点を取れて自信になったし、日本代表監督は三菱の横山(謙三)さんだったから、声をかけてもらって代表に入ることもできた。そのタイミングでラモスさんと一緒になったということなんだ。2部降格が俺にとってはプラスに働いたってことだな」

 一方、社業では勤労部厚生企画課に所属し、丸の内の本社に勤務していた。

「仕事は福利厚生だから、保養所や寮、社宅を管理・改修したり。新幹線通勤も流行っていて、そうしたものも管理していた。ただ、俺自身はほとんど仕事してない(笑)。ワープロで数字を入力したりはしていたけれど、早めに食堂で昼食をとって、午後からは調布にある練習場に行っていたな」

【次ページ】 プロ化に動くサッカー界…転機は91年キリン杯

BACK 1 2 3 4 NEXT
福田正博
浦和レッズ
原博実
大仁邦弥
斉藤和夫
横山謙三
反町康治
三浦知良
ハンス・オフト
ラモス瑠偉
与那城ジョージ

サッカー日本代表の前後の記事

ページトップ