Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「カズに憧れていた」福田正博が今だから明かす30年前の本音…“賞金50万”で買った思い出のヴィトンのバッグ〈Jリーグ前夜の記憶〉
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byNIKKAN SPORT
posted2023/04/24 11:00
三菱重工時代の福田正博。2部リーグでのスタートになったが、そこで出場機会を得たことが後の日本代表選出につながっていく
福田が社会人3年目となる91年、サッカー界にはプロ化の波が押し寄せていた。
それまでずっと三菱重工の社員選手だった福田にも決断の時期が迫っていた。
「その頃、日本代表に行くと、プロ契約をするのか、どうするのか、そんな話で持ちきりだったよ。全日空の反町(康治/現・日本サッカー協会技術委員長)さんは『俺はプロにはならない。親に反対された』って言っていたような気がするな」
実際、反町は全日空の社員のまま横浜フリューゲルスの選手としてJリーグ元年を戦うが、その後、プロ選手となってベルマーレ平塚へと移籍する。
一方、福田は迷いに迷っていたが、背中を大きく押される出来事があった。
91年6月、ブラジル代表のベベットやビスマルク擁するバスコ・ダ・ガマ、イングランド代表エースのガリー・リネカー擁するトッテナム、タイ代表と対戦したキリンカップに右ウイングバックとして3試合すべてで先発し、優勝に貢献するのだ。
「今思えば勘違いも甚だしいんだけど、やれる気がしたんだよ。もしプロサッカーリーグがうまくいかなくても、海外でプロを続ければいいんじゃないかって。ただ、三菱を退社するとき、勤労部の部長から『なんで辞めるんだ?』と言われたんだ。こんなに大きくて安定した会社を大卒3年で辞めるのが信じられなかったんだろうね。Jリーグが開幕するわずか2年前のことだけど、そういう時代だったんだ」
福田が退社を決めた91年7月、2年後に開幕する予定の新プロリーグの正式名称が「日本プロサッカーリーグ」に決まり、愛称を「Jリーグ」とすることが発表された。
忘れられないヴィトンのバッグ
このキリンカップではもうひとつ、福田にとって忘れられないことがある。代表活動で初めて賞金をもらったのだ。
「ひとり50万円支給されてね。こっちはまだサラリーマンだから、そんなお金をポンってもらうことなんてないわけ。カズ(三浦知良)が協会に掛け合ってくれたんだけどね」
福田が日本代表に選ばれるようになった頃、同じ学年で、ブラジルでプロ選手として活躍していたカズが帰国し、日本代表に選ばれるようになった。
プロ選手のカズはアマチュアイズムの濃い日本サッカー協会と交渉し、代表チームにもプロフェッショナリズムをもたらしていく。
キリンカップを終えたあと、香港遠征中の三菱重工サッカー部に合流すべく、福田は海を渡った。香港に着くと、福田はある場所へと向かった。
「ヴィトンの専門店に行って、バッグを買ったんだ。初めてサッカーで大きなお金をもらってすごく嬉しかったな。あの嬉しさは、今でも忘れられないなあ」
当時、プロ野球選手といえばベンツに乗り、ロレックスと金のネックレスを身に着け、セカンドバックを抱え、派手なシャツを着るようなイメージがあったのに対して、サッカー選手はスタイリッシュだった。
「ポルシェに乗って、カルティエを着けて、ヴィトンのバッグを持って、アルマーニを着る、みたいなね(笑)。こういうサッカー選手像を築き上げたのは、カズなんだよ。当時、代表ではみんな、カズと同じブランドを買っていた(笑)。まあ、カズはジョルジオ・アルマーニ、俺たちは手の届きやすいエンポリオ・アルマーニだったんだけど」