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スポーツ物見遊山BACK NUMBER
「ムーンサルトは小学生の時からできていたよ」武藤敬司の新日入門があと1年早かったら“ヘビー級のタイガーマスク”が誕生していた?
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2023/02/21 17:00
「タイガーマスク(佐山聡)を全米でデビューさせる」と野望を明かしていたアントニオ猪木。師匠の夢を実現したのが、グレート・ムタだった(写真は米サウスカロライナ・1989年グレート・ムタvsリック・フレアー)
ムトウは現地で発音しづらいから「ムタ」に。グレート・カブキの息子という痛快で成りゆきな設定。鏡を見つつ武藤自身が描いていたため、漢字が逆さまになったままのテキトーなペイント、忍者をイメージしたアナクロ的日本人イメージのコスチュームetc。いかにも海外修行限定ともいえる場当たり的な変身だった。これが武藤の卓越した運動神経とともに、ムタへの変身でさらにリミッターが外れ、驚愕のアクションを生み出し、全米にて大ヒットしてしまうのだから面白い。
武藤の師匠・アントニオ猪木は80年代より「タイガーマスク(佐山聡)を全米で本格デビューさせて、ブルース・リー以来の大ブームを巻き起こす」という野望を抱いていたものだが、そんな猪木の夢など露ほども意識していない武藤が、それを実現してしまった形になる。
「米国で大活躍」報道は控えめだったが……
日本国内では、それまでの定型にのっとり「米国で修行中の武藤が現地で大活躍」といった感じで控えめに報道されていたが、すでにリック・フレアーやスティングらトップ選手の好敵手として名を馳せていた武藤は、実際のところ「修行中」などではなく、すでに「単なるトップ選手」となっていた。狭い日本に帰ってくる理由もないほどに……。
平成新日本プロレスの斬新だった点は、そんな武藤の凱旋帰国(90年4月)からしばらくして、「もう一つの顔」であるムタをも国内マットに登場(90年9月)させた点にある。当時はまだまだ生真面目なファンが主流だったため、武藤の化身とはいっても「新日本の悪ふざけ」程度に思われていた。ところが、そんなムタの反則も交えた自由奔放なファイトにこそ人気が集まってしまい、ドーム大会などビッグマッチへの出場機会はことごとくムタに奪われ、当の武藤自身が苦しむなんて予想だにしない展開となった。
90年代中盤以降は、ヒザの故障に苦しみ、ムタも武藤もアクロバティックな動きは封印していくことになる。80年代後半から90年代前半に米WCWで活躍していた時代の映像を見返すと、その動きの俊敏さ、なんの躊躇もなく飛び上がる空中殺法、寝技での切り返しなど、現在の視点で見てもヘビー級とは思えない動きを披露していたことに驚かされるだろう。
40年前、プロレス界の悲願であった「ヘビー級のタイガーマスク」は、ムタによって実現していた。ムタという異能は数十年後にも「こんな選手がいたのか」と語り草になっていることだろう。
(#2スキンヘッドヒーロー編につづく)
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。