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スポーツ物見遊山BACK NUMBER
「ムーンサルトは小学生の時からできていたよ」武藤敬司の新日入門があと1年早かったら“ヘビー級のタイガーマスク”が誕生していた?
posted2023/02/21 17:00
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph by
東京スポーツ新聞社
ちょうど40年前(1983年)の春のこと。当時はタイガーマスク(初代=佐山聡)人気により、新日本プロレスが大ブームを巻き起こしていた時代。毎週金曜夜8時からのプロレス中継のみならず、金曜深夜1時から放送されていた『山口良一のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)においても、毎週プロレス情報が発信されていた。
アントニオ猪木はじめ、選手がゲスト出演することも多いのだが、地方巡業に出ていたり、時間帯も時間帯なだけに、当時のスポークスマン・新間寿氏(当時、専務取締役兼営業本部長)が出演することも多かった。
その日の話題は、第1回IWGPにまさかの欧州ゾーンから出場(当時、ヨーロッパヘビー級王者)が決定した英国修行中のホープ・前田明(前田日明)のこと。IWGP出場前に4月21日の蔵前国技館大会で凱旋帰国マッチ(vsポール・オンドーフ)が決定した前田の現地での成長と、その試合ぶりを新間氏は「ヘビー級のタイガーマスクです!」と断言したのだった。
実際に凱旋した前田の試合ぶりは、切れ味鋭いキック、柔らかいブリッジを活かしたスープレックスなどで話題になったが、佐山タイガーを思わせる、いわゆる猫のような俊敏な動きとはまた違う。ジュニアヘビー級選手である佐山タイガーの動きを本格ヘビー級の前田に求めるのはそもそも無理があった。「ヘビー級のタイガーマスク」は日本に限らず、世界プロレス界の悲願であり、叶わぬ希望でもあった。
そんなうちに、この年の夏から新日本プロレスはタイガーマスクの引退、クーデター騒動とゴタゴタの大激動に見舞われ続ける。当の新間氏も退社し、翌84年にはUWFの旗揚げが発表され、前田も凱旋帰国から1年と経たずに移籍し、秋には長州力らも離脱し、選手層もガクッと薄くなってしまうのだった。
ずば抜けていた武藤敬司の素質
そんな激動の時期。84年春にスカウトされたわけでもないのに新日本プロレスに入門してきたのが武藤敬司だった。他にも蝶野正洋、橋本真也、船木優治(現・誠勝)ら後のスター選手が同期入門しており、改めて新日本プロレスの強運ぶりに驚かされる。
オリンピック選手とかではないので、一般の新弟子とまったく同じ扱いだったはずだが、武藤の素質は明らかにずば抜けていた。