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70年前、箱根駅伝5区を「日本人初のボストン優勝ランナー」が走っていた…伝説の韋駄天・田中茂樹が生前に語った箱根路の記憶と母の教え
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byShigeki Tanaka
posted2023/01/03 06:03
2022年10月4日に91歳で亡くなった伝説のランナー・田中茂樹の高校時代。当時から周囲に「韋駄天田中」と呼ばれていたという
尊敬する母の教え「シゲキよ、つらい時は走るんじゃ」
広島県北部の比婆郡敷信村(ひばぐん・しのうむら)出身の田中は14歳で父を亡くし、2人の兄は軍隊に召集された。そのため牛の手綱を取り田畑を耕作し、母の農作業を手伝いながら1年遅れで比婆西高校に進学した。牛が好きだったため高校では畜産科に入り、将来の夢は農村のリーダーになることだった。
ところが、母の一言で運命が変わった。
田中は子どもの頃から冬になると麦踏みをさせられた。麦は種を蒔いてしばらくすると芽が出る。それが5~10センチほどに成長した頃に、足で踏み倒さなければいけない。踏み倒された麦は、またピンと起き上がってくる。それを3回繰り返す。すると麦は立派に成長し、収穫できるようになる。
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麦踏みをしていて、田中少年は母に広島弁で疑問を口にしたことがある。
「なんで出てきた芽を踏まにゃあいけんのか?」
母はまじめな顔でこう応えてきた。
「もうじき霜が降りる。こうして踏んどきゃあ霜にゃあ負けん。麦は踏めば踏むほど収穫はええんじゃ。踏まにゃあすぐに実が落ちて倒れてしまう。こりゃ人間も同じだ。悲しいことやつらいことを乗り越えて、強うなる」
「人間を踏むことはできんじゃないか。どうやったらつらい時を乗り越えられるん?」
「シゲキよ、そんな時は走るんじゃ。止まっとったらいかん。走って体を動かしゃあなんでも解決する」
その時の会話が胸に焼き付いていたのか、田中は落ち込んだ時は常に走った。それがいつの間にか、走ることが習慣になっていた。高校までの片道4キロの山道を、雨の日も風の日も小脇に風呂敷を抱えて毎日走って通った。すると、周囲からは「韋駄天田中」と呼ばれるようになった。高校時代に知人の勧めで出場した10マイルロードレースでいきなり2位となり、それから本格的に走ることに魅了されていったという。
「父も2人の兄も亡くなり、母が私を女手ひとつで育ててくれた。たくましい人で私の人生の手本だった。『走るんじゃ、シゲキ』と言う母の声は今でもはっきりと覚えている。それが私のランナーの原点です。それにもうひとり、忘れることができない恩人が……」
そう言って田中はカバンの中から1枚の写真を取り出した。瞳に薄い水の膜が張った。しばらく沈黙が続いた後、田中の口がようやく動いた。それが、今の時代では想像できないほど壮絶な物語の始まりだった。
<#2、#3へ続く>