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70年前、箱根駅伝5区を「日本人初のボストン優勝ランナー」が走っていた…伝説の韋駄天・田中茂樹が生前に語った箱根路の記憶と母の教え 

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田中耕

田中耕Koh Tanaka

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photograph byShigeki Tanaka

posted2023/01/03 06:03

70年前、箱根駅伝5区を「日本人初のボストン優勝ランナー」が走っていた…伝説の韋駄天・田中茂樹が生前に語った箱根路の記憶と母の教え<Number Web> photograph by Shigeki Tanaka

2022年10月4日に91歳で亡くなった伝説のランナー・田中茂樹の高校時代。当時から周囲に「韋駄天田中」と呼ばれていたという

山登りの5区で区間賞「あの舞台に立てただけでも…」

 田中の話が一段落したのを見計らって、筆者は尋ねた。

「箱根駅伝とは、と聞かれて最初に思い出されるのはなんですか?」

 田中は間髪入れずに応えた。

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「箱根駅伝を勝負事として捉えるならば、私にとっては敗者からのスタートでしたね」

 田中は日本大学1年生の時、1952年の第28回大会の3区で初出場した。前半の緩やかな下り坂で腹痛を起こして悪戦苦闘し、なんとかタスキをつないだが、1時間17分24秒の区間5位に終わった。

「悔しかったね。眠れなかったよ。次の大会で雪辱してやろうと思った」

 しかし、3カ月後に田中に災難が降りかかる。練習中に右膝を痛めてしまったのだ。その年の5月、ヘルシンキ五輪最終選考会を兼ねた第7回毎日マラソンに完治しないまま強行出場した。天候はあいにくの雨。足袋の中はびしょ濡れとなり、右足の指が擦れてしまったことで思うように走れず惨敗だった。

「私はあれ以来、雨がトラウマになり、雨の日は外を出歩きたくないんですよ」

 そう苦い思い出を振り返りながらも、「五輪出場は果たせなかったが、私は生粋の負けず嫌い。是が非でも箱根駅伝では1位を取りたかった」と、どん底からはい上がろうと心は燃えていた。

 日大2年時の1953年には、自ら5区出場を監督に直訴した。言わずとしれた高低差800メートル超の「山登りコース」だ。現在も箱根路の最大の難所として知られているが、田中は上り坂を得意としていた。ボストンマラソンで4カ所の“心臓破りの丘”を制し優勝していたことが自信になっていたからだ。右膝の痛みはなおも残っていたが、1時間28分17秒の区間1位に輝いた。

「1年の時の悔しさと毎日マラソンの悔しさを晴らした気持ちだったね。記録的にはあまりよくなかったけど、1位は気持ちいいものだよ」

 箱根駅伝での田中の区間1位は、この1回だけに終わった。3、4年時も故障の影響で満足のいく走りができなかったが、悔いはない。箱根路を駆け抜けた4年間は、喜びも悔しさもすべて思い出になっている。

「1年の時に1位になっていたら天狗になっていたかもしれない。悔しさがあったから、翌年の区間1位も取れた。それに箱根駅伝は、当時から大学生のあこがれの舞台。私は輝かしい成績は収められなかったけれど、田舎者があの舞台に立てただけでも幸せでした」

【次ページ】 尊敬する母の教え「シゲキよ、つらい時は走るんじゃ」

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