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大学野球PRESSBACK NUMBER
「親父に恥をかかせたくない」名将・馬淵史郎の息子、馬淵烈が明かす“甲子園に届かなかった”明徳義塾の18年間「中学の時はよう泣いていました」
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byHideki Sugiyama
posted2022/12/23 11:00
現在は拓殖大学の監督を務める馬淵烈さん。父が監督を務める名門・明徳義塾で主将にもなったが、甲子園には出場できず。現役時代について話を聞くと…
しかし、急造投手で勝ち上がれるほど甘くなかった。夏の高知県大会決勝で高知高校に「7番・ 投手」で先発も、3失点で3回途中降板。8回から再登板も2回2失点 と流れを呼び込むことができず、1-7で大敗した。結局、3年間で一度も甲子園の土を踏むことはできなかった。
「高知高校に国尾(健人)ってピッチャーがいて、そいつに小中高と全国大会がかかっている試合で投げ合って全部負けているんですよ。聞いたら誕生日も6月5日で一緒(笑)。そんな因縁のやつもいるんですよね」
3年最後の夏、県大会決勝で敗れ、父からは…
試合後に行われた、父からの最後のミーティングで覚えている言葉がある。
「報われないことも、これから世の中であるんや」
深く、胸に突き刺さった。
「僕の18年間の意味みたいなものが甲子園で、それは報われると思っていましたから。でも、そこで感じたのは、明徳がこれまで甲子園に行き続けてきた中で、敗者がいたんだなって。勝ったらそんなこと考えないじゃないですか。負けていた人たちのことも考えなさいよ、っていうのを言われた感じでした」
それまで勝ち続けてきた明徳義塾で「負けたことがある」ということが、「馬淵烈」という人間を形成する上で非常に大きな財産となった。
大学野球の名伯楽・内田俊雄監督との出会い
明徳義塾とともに育った18年間。高知を巣立ち、父の母校でもある拓殖大学へ進学した。
「拓大って親父の母校というくらいで全く知らなくて(笑)。田舎者の憧れで、とにかく東京に行きたかったっていうところだけでした」
馬淵さんはそこで3人目の恩師となる内田俊雄監督(76)と出会う。亜細亜大学の監督として、現ヤクルト監督の高津臣吾(ヤクルト、ホワイトソックスなど)や井端弘和(中日、巨人)ら、数多くのプロ野球選手を輩出した名伯楽は、2006年から同じ東都リーグで当時3部に属していた拓殖大学の監督に就任。翌2007年春に3部で優勝すると、入れ替え戦にも勝利して2部復帰を果たしていた。
馬淵さんが入学した2008年は、悲願の1部昇格へ向けて厳しい練習に取り組んでいる時期だった。
通常はリーグ戦の1カードで2勝して勝ち点を奪取した翌日は休日なのだが、内田監督の指示で練習になることもあった。