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大学野球PRESSBACK NUMBER
「親父に恥をかかせたくない」名将・馬淵史郎の息子、馬淵烈が明かす“甲子園に届かなかった”明徳義塾の18年間「中学の時はよう泣いていました」
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byHideki Sugiyama
posted2022/12/23 11:00
現在は拓殖大学の監督を務める馬淵烈さん。父が監督を務める名門・明徳義塾で主将にもなったが、甲子園には出場できず。現役時代について話を聞くと…
「僕の家は明徳の寮の隣にあって、もう寮の一部なんですよ。家の隣にものすごく憧れだった『お兄ちゃん』たちがいて、一緒にキャッチボールをしてもらったりしていました。僕、少年野球は軟式なんですけど、親父が「ええから放れ」って言って、硬球を投げたりもしていました。もしかしたらあそこで選手生命終わっていたかもしれません(笑)。でも、甲子園常連のチームのみなさんと練習させてもらえるというので、ものすごく刺激があって、バッティングを教えてもらったり、守備でもこう捕れよとか……。いい思い出しかないですね」
1998年甲子園で春8強、夏4強の原動力だったエースの寺本四郎(ロッテ)、控え投手の高橋一正(ヤクルト)、2002年夏に同校を初の全国制覇に導いたキャプテンの森岡良介(中日、ヤクルト)、主砲の筧裕次郎(近鉄、オリックス)……。憧れの「お兄ちゃん」たちを身近に感じながら、自分もいつか明徳のユニホームを着て、甲子園で活躍する姿を想像するのはごく自然なことだった。
「反抗期とかもなかったし、他のスポーツをやりたいとかいうのは考えたこともないです。明徳で野球をやるのが規定路線ですよ。生まれた時から18年間、山の中が決定していました(笑)」
「明徳の先生の息子やから」よく泣いていた中学時代
2002年春。中高一貫の明徳義塾中に入学し、寮に入った頃から「馬淵史郎監督の息子」を意識するようになる。試合に出ると、先輩から「何でお前が出てんねん」「明徳の先生の息子やからやろ」と心ない言葉を投げつけられることもあった。
「中学の時はよう泣いていました。明徳って夜、街灯とかもないから星空が笑っちゃうくらいきれいなんですよ。寮の階段の非常口で泣きながら『星きれいやな』って。今だったら受け流せるようなことも、その時ってまともに受けてしまう。うまく逃がせなかったですね」