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アントニオ猪木vsマサ斎藤の“巌流島決戦”は血だらけの死闘に…証言で見る舞台裏「猪木さんは自暴自棄に」「あんな馬鹿な試合ができるのは…」 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/10/25 17:15

アントニオ猪木vsマサ斎藤の“巌流島決戦”は血だらけの死闘に…証言で見る舞台裏「猪木さんは自暴自棄に」「あんな馬鹿な試合ができるのは…」<Number Web> photograph by Essei Hara

1987年10月4日、アントニオ猪木とマサ斎藤による「巌流島決戦」

世代闘争はわずか3カ月で沈静化

 また、この時期はリング上だけでなく、テレビ番組自体のテコ入れも行われた。“過激なアナウンサー”として、プロレスブームを支えた古舘伊知郎が、この大阪大会を最後に実況を勇退。それを受けて、放送時間帯も月曜8時から火曜8時に移り、番組名を『ギブUPまで待てない! ワールドプロレスリング』と変え、山田邦子を司会に迎えたスタジオ収録を加えたバラエティ色を強く打ち出したが、これが完全に裏目。第1回放送分の視聴率はなんと5・1%と、ただでさえ低迷していた視聴率が一気に半減する大惨敗を喫してしまう。

 低視聴率の要因は番組構成だけではなかった。この後、長州は新日復帰をはたすが、全日本との契約が残ったままの強引な移籍だったため、『全日本プロレス中継』を放送する日本テレビとの契約が切れる10月までの半年間、テレビ朝日に映ることはできなかったのだ。リング上の主役がテレビに映らないのだから、これでは高視聴率など望むべくもない。長州の復帰は、テレビ的には逆効果しか生まなかった。

 それでもリング上の話題は、長州を中心に回っていく。6月12日の両国で、猪木がマサ斎藤を破りIWGPリーグ戦優勝をはたすと、試合後に長州がリングイン。そしてマイクを握り「世代交代だ! いましかないぞ、俺たちがやるのは!」と、藤波、前田らに決起を促し、一丸のなっての打倒猪木を宣言。これを受けて猪木も宿敵であり、同世代の戦友であるマサ斎藤とガッチリ握手。猪木ら旧世代軍と長州、藤波、前田ら新世代軍による「新旧世代闘争」が勃発したのだ。

 この時の背景を元『週刊プロレス』編集長のターザン山本はこう語る。

「長州が戻ってきたことで、新日本はスター選手が揃ったけれど、新日軍、長州軍、UWF、それに外国人レスラーがいるという、派閥だらけのわかりづらい構図だった。また、プロレスに格闘技を持ち込み、新日の色に染まらない前田らUWFを新日幹部はもともと煙たがっていた。だから、旧世代vs新世代の抗争というのは、対立構造をわかりやすくすることと、UWF、長州軍という派閥をなくして、UWFイズムを消す、その二つの目的があったんです」

「猪木さんはある種、自暴自棄になっていたんですよ」

 旧世代vs新世代の世代闘争とは、言ってみれば新たな猪木軍と長州軍にわけた軍団抗争だった。しかし、前田はこのストーリーに追従しながらも、長州の呼びかけに対して「世代闘争とかごちゃごちゃ言わんと、誰が一番強いのか、ハッキリさせたらいいんや!」と答えることで、猪木と長州主導の流れにクギを差していた。これが、のちに大きな意味を持つこととなる。

 この世代闘争は最初こそファンの関心を呼んだが、長州が関わっている関係でテレビ放送ができないこともあり、徐々に尻つぼみになっていく。8月には抗争の天王山として両国2連戦が組まれたが、真の決着はうやむやに。そうこうしているうちに、猪木は「巌流島の決闘」をぶち上げ、再びマサ斎藤との抗争をスタートさせる。こうして世代闘争はわずか3カ月で終息してしまうのだ。

「この時期の猪木さんはある種、自暴自棄になっていたんですよ。事業で億単位の借金を抱え、新日本の人気も低迷、リング上での“世代闘争”も自分を脇に追いやるような流れで面白くなかった。また、私生活でも倍賞美津子夫人との離婚問題を抱えていた。87年の猪木さんが“自爆”を繰り返していたのは、こんな精神状態が影響していたんです」(ターザン山本)

【次ページ】 そして迎えた10・4「巌流島決戦」

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