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ヤクルトはドラフトでなぜ“持っている”のか? 伝説は“くじ運最強の社長”から小川GMまで…球団職員「そのツキで私の宝クジを買って下さい」 

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岡野誠

岡野誠Makoto Okano

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posted2022/10/20 11:08

ヤクルトはドラフトでなぜ“持っている”のか? 伝説は“くじ運最強の社長”から小川GMまで…球団職員「そのツキで私の宝クジを買って下さい」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1980年代から「ドラフトくじ」で無類の勝負強さを誇ってきたヤクルト。その理由を探る

〈東新橋の球団事務所に帰ると、球団職員から拍手の嵐。「代表、そのツキで私の宝クジを買って下さい」と女子職員から声が掛かったほど……〉(1983年11月23日付・スポーツニッポン)

“去り際”まで完璧だった「持っている男」

 相馬は1984年にも広沢克己の交渉権を獲得。3年連続1位抽選を当て、神懸かり的な運の強さは大きな話題となった。それでも、相馬は冷静さを失わなかった。なんと翌年、くじ引きを辞退したのだ。

〈三年続きはラッキー。ぼつぼつツキも落ちごろ〉(1985年11月20日付・スポーツニッポン)

 相馬は“運には限界がある”と悟っていたのだろう。事実、相馬の撤退はプラスに働いた。大役を担った田口周代表が3球団競合の伊東昭光を引き当てたのだ。1988年には、新たに片岡宏雄スカウト部長が抜擢されて2球団競合の川崎憲次郎の獲得に成功している。

 一方、『夢よもう一度』とかつての手腕に期待すると、ヤクルトでも上手くいかない。田口代表から再び相馬社長に戻した1987年には長嶋一茂を引き当てたが、大成はしなかった。1989年には再登板の相馬社長が野茂英雄を外し、1990年には2年ぶりの登場の片岡スカウト部長が小池秀郎(ロッテ拒否/1992年近鉄1位)を当てられなかった。

 その教訓を生かして方針を変えたのか、1992年には野村克也監督が初めて重複抽選に臨む。すると、広島、オリックスと競合の末に伊藤智仁を引き当てた。

 ノムさんは会議直前に左手で引くと話していたが、実際には右手に変えた。その理由を問われると、「(相馬)社長が利き腕の右で行ったほうがいいと言うから(笑)。あんまり関係ないでしょうけど、社長の言うままに右にしました」と笑顔を見せた。伊藤を当てた嬉しさに加え、その言葉の根拠のなさに笑ってしまったのかもしれない。

 相馬球団社長から田口代表、片岡スカウト部長、野村監督と強運が受け継がれ、荒木、高野、池山、広沢、伊東昭光、川崎、伊藤智仁という“抽選勝ち選手”は1990年代のヤクルト黄金時代を担う重要なピースとなった。

 しかし、大学生と社会人に逆指名権が与えられた1993年以降、くじ引きは激減。時折、高校生の抽選があったが、野村監督は1995年の福留孝介(近鉄拒否)と澤井良輔(ロッテ)と1位を連続で外し、1997年も1位の川口知哉(オリックス)、2位の新沼慎二(横浜)を引けず、伊藤智仁を当てた直後の菊地原毅(広島)と合わせて通算1勝5敗に終わった。ヤクルト監督時代、4度の優勝、3度の日本一に輝いた分、運が尽きてしまったのだろうか。

【次ページ】 連覇の立役者? ヤクルトの“新くじ引きスター”

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