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プロ野球PRESSBACK NUMBER
“野村再生工場の最高傑作”田畑一也が覚醒するまで「“ドラフト最下位”は上を目指すしかない僕には最高の称号だった」年俸は大工時代の30倍
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byKYODO
posted2022/10/19 11:02
1997年6月29日、62歳の誕生日だった野村克也監督に完封勝利を届けた田畑一也。トレードで加入したヤクルトで活躍し、“野村再生工場の最高傑作”とも呼ばれた
98年に古傷の右肩痛が再発した田畑は、それからの2年間をまともに働くことができなかった。99年のオフ。代田建紀・衣川幸夫との交換トレードで大阪近鉄バファローズへ移籍したがそこでも活躍はできず。翌年には三度目となるトレードで読売巨人軍へ移籍した。
巨人に移籍して1年目の2001年は、主にリリーフとして登板し、29試合1勝1敗、防御率は3.66と復調の兆しをみせたが、右肩痛は最後まで回復することはなく、翌02年の8月に現役引退を決意する。
9月14日、ジャイアンツ球場におけるファームのヤクルト戦に田畑一也、引退登板の舞台が用意された。9回の表。田畑の名前がコールされると、ヤクルトは代打にこの年限りで引退を決めていた“盟友”池山隆寛を送る。球場を埋めるファンや、富山から駆けつけた田畑の応援団から大声援が送られる。
勝負は1球で終わった。田畑の渾身の1球にフルスイングで応えた池山の打球はピッチャーゴロ。打球を捕った田畑は、右膝を痛めていて一塁まで走れずにいる池山の姿に胸が熱くなるのを覚えた。
田畑もまた池山隆寛に対して投げたこの1球のために痛み止めを5本打って最後のマウンドに立っていた。それは最後の最後まで身体を使い切ったという誇らしい証。まったく悔いのない引退だった。
「引退登板までさせて貰って、現役生活に悔いはありません。僕自身、入団当初から『引退できる選手になる』のが目標でした。だって、僕らみたいな下位選手はクビになったらどこも獲ってくれないでしょ。
振り返ってみると、入団の経緯からずっと技術ではなく気持ちでやってきたんですね。挫折して挫折して、それでももう1回チャンスを貰おうとして得た“ドラフト最下位”は、上を目指すしかない僕には最高の称号だった。コーチやフロントや周囲に何を言われようとも、どんな酷い扱いを受けても、ナニクソと踏ん張りながら『絶対負けたくねえ!』って気持ちでやってこられた原動力にもなりましたからね。僕にとってはドラフトで一番いい指名順位だったと思います。これが中途半端なドラフト7位8位だったら、『まだ下がいるから』ってあっさり終わっていたかもしれない。すぐ調子こくタイプですから」
最下位指名だから教えられることがある
2002年限りで現役を引退した田畑は巨人軍のスコアラーを9年間務めた後、2011年から巨人の二軍投手コーチに就任。原辰徳監督の下、育成に力を入れている巨人軍には、ドラフト下位指名選手、育成指名選手が数多く存在し、彼らの突き上げを促す存在として田畑に懸けられる期待は大きかった。その後、一軍二軍コーチを歴任し、2017年まで巨人の投手コーチとして重用された田畑は2018年、約20年ぶりに東京ヤクルトへ復帰。
ドラフト最下位から這い上がり、頂点が見える場所まで上り詰めた田畑だからこそ教えられることはある。そしてチャンスの与えられない厳しい状況下に置かれた彼らの気持ちにも寄り添うことができる。
ドラフト最下位。今、田畑はその経歴に誇りを持って、後進を指導している。
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