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プロ野球PRESSBACK NUMBER
“野村再生工場の最高傑作”田畑一也が覚醒するまで「“ドラフト最下位”は上を目指すしかない僕には最高の称号だった」年俸は大工時代の30倍
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byKYODO
posted2022/10/19 11:02
1997年6月29日、62歳の誕生日だった野村克也監督に完封勝利を届けた田畑一也。トレードで加入したヤクルトで活躍し、“野村再生工場の最高傑作”とも呼ばれた
工場長による田畑再生の手解きは移籍1年目、96年の春季キャンプから行われていた。
「春のキャンプでチームに合流してからは『何が何でも絶対に一軍に生き残る』と覚悟して、がむしゃらに投げていました。そんな時、ブルペンで野村監督に『お前コントロールいいな』って褒められたんです。ほとんど人を褒めないと言われている監督からそんなことを言われたら、『あれ、俺コントロール良くないんだけど、本当は良いのかな?』って勘違いするじゃないですか。紅白戦、オープン戦も僕がやりたかった先発で使って貰い、一番いい状態でシーズンへ入れた。あの序盤に上手いこと手のひらで転がしてもらえたことが、僕がヤクルトで成績を残せたきっかけになったんでしょうね」
移籍1年目の96年シーズン。田畑は4月13日の初先発を皮切に、1年間ローテを守りきった。25試合に先発して12勝12敗。防御率3.51。7月のオールスターには監督推薦で出場し、地元富山アルペンスタジアムで行われた第3戦に凱旋登板を果たすなど、昨年までが噓のように一気に主戦級投手へと成り上がる。「一軍半でいいや」と半ば自分に対して諦めを持っていた、ドラフト10位の田畑は完全に姿を消し、その後には「野村再生工場の最高傑作」が誕生した。
「後ろの7人にも仕事をさせてやれ」
監督の野村克也は後年、田畑に対してこんなことを語っている。
「田畑に限らず、プロ野球選手はほんのひと言のアドバイスで変わるケースが往々にしてある。ほとんどは、それまでの考え方が間違っていたからだ。バッターはホームランの魔力に取りつかれ、ピッチャーは三振──あるいは空振りを取る快感に走る。プロ野球選手でありながら、『野球とは?』という思考も発想もない。野球について、細かく考えていないのだ。監督として日々ミーティングを行うようになって、そんな選手が多いことをあらためて知った。(中略)『三振を取れるか取れないかを考えるのは、2ストライクに追い込んでからにせい。後ろに7人守っているんだから、ヤツらにも仕事をさせてやれ』そんなことでピッチャーは変わるのだ。実際、田畑もそうだった」(週刊ベースボールONLINE 2015年12月3日 野村克也の本格野球論 本物の野球はどこへ行った! 野村克也が語る「再生の本質」より)
翌97年にはさらに成績を上げ、15勝5敗、防御率2.96と貯金10を作るエースの働きで、自身も初となる優勝に貢献。オールスターには2年連続選出。古田敦也と最優秀バッテリー賞を受賞。年俸は大工時代の30倍にまで跳ね上がり、チームはおろか投手としてプロ野球界を代表する存在になっていた。
それはドラフト最下位指名だった男が、どん底の92番目から1人ずつ抜かし、トップが見えた瞬間でもあった。
「本当に意識ひとつなんだと思います。ヤクルトに移籍して、それまでの意識を変えられたことには、“周りの見る目”が変わったことも大きかったんです。ダイエー時代を振り返ってみると、僕らみたいな下位選手は、毎年上位で入団してくるルーキーにも、“そういう目”で見られるんです。でもそういうレッテルのない外の世界に出てしまえば、過去の順位や経歴は一切なくなって、ポンッとチームに入ってきたところから再スタートを切れる。僕がヤクルトに移籍した時は、年齢も上の方でした。そこで運よく結果を残せたから、周囲も好意的に見てくれたし、調子に乗っていけたんでしょうね」
ヤクルトに移籍して2年間で絶頂期を迎えた田畑。しかし、翌年から再び右肩が悲鳴を上げ、苦しい時代に突入する。