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プロ野球PRESSBACK NUMBER
“野村再生工場の最高傑作”田畑一也が覚醒するまで「“ドラフト最下位”は上を目指すしかない僕には最高の称号だった」年俸は大工時代の30倍
posted2022/10/19 11:02
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph by
KYODO
1992年。田畑一也のプロ野球選手としてのキャリアがはじまった。同期入団にはその年のドラフトの目玉、ひとつ年下の黄金ルーキー・若田部健一が、眩しいばかりの光を放ち、球団幹部、マスコミ、ファンに囲まれていた。
一方、謎の経歴「田畑建工からテスト入団」というドラフト10位の投手を知る者は誰もなし。
「絶対に負けたくない!」
それは自然な感情だったに違いない。だが、即戦力ドラフト1位ルーキーとの差はあまりにも大きく、残酷だった。
即戦力として春のキャンプから一軍に入った若田部は、開幕から1年間ローテを守り10勝を挙げパ・リーグ特別表彰を受けた。一方、田畑は1年間一軍どころか、二軍でもほとんど登板なしのわずか7イニングのみ。自分の練習よりも一軍のバッティングピッチャーばかりをやらされるうちに、文字通り影も形も見えなくなってしまった若田部の姿を追うことを止めていた。
「やっぱり、最初からあまりにも高い目標だと、途中で力尽きてしまうというか、気持ちの面でも難しい。やはり目標は近いところに置いた方がやりやすいですよ。まぁ、この年の新入団選手で、僕は一番最後で一番下の92番目の指名選手。ダイエーの70人枠の中で背番号69ですからね。一人一人追い抜いてステップアップしていけばいいと、目標は立てやすかったかもしれません。
ただ、元々プロで長くできるなんて思ってない。数少ないチャンスでも、滅茶苦茶やって、行けるところまで行く覚悟です。そのためには、コーチとケンカもしましたし、フロントの方に生意気も言いました。納得できないものは簡単に『はい、そうですか』と言わない。何を言ってもダメなものはダメだとわかっていてもね。何とかしていかないと終わってしまう。だから『今にみとけよ!』という気持ちは常に持っていました」
転機となった根本陸夫監督の就任
“ドラフトの順位はチャンスの多さ”
そんな言葉を痛感したままバッティングピッチャーで終えた1年目の秋。チャンスは突然降って湧いてきた。
その年4位に終わったダイエーは田淵幸一監督が成績不振のため退任。代わって新監督に就任した根本陸夫氏は、秋季キャンプで全日程紅白戦を行い、全選手にチャンスを与えることを明言したのだ。
「根本さんが監督になって最初に言ったことが『全選手横一線からスタートする』ということ。それは口だけじゃなく本当に実行してくれました。これはドラフト下位の僕らにとってはラッキーですよ。まともに試合で投げたことなんてないのに、全部紅白戦ですからね。しかも順番に投げていくので、そこでいい成績を残せたら一気に上がれる。こんなチャンス逃す手はないでしょ。投げた試合はすべて0点に抑えました。
翌93年の春季キャンプも紅白戦メインでしたが、そこもなんとか抑えて、オープン戦、開幕一軍を手に入れることができた。自分で言うのもなんですけど、この時のチャンスを勝ち取れたということですよ。もちろん運の面も大きかったですけどね」