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「背後からスゴい速さで…」アントニオ猪木が徹底した“多摩川の早朝ラン”、クソ真面目な鍛錬が「猪木プロレス」に必要だった理由 

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高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

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photograph byMakoto Kenmizaki

posted2022/10/03 17:00

「背後からスゴい速さで…」アントニオ猪木が徹底した“多摩川の早朝ラン”、クソ真面目な鍛錬が「猪木プロレス」に必要だった理由<Number Web> photograph by Makoto Kenmizaki

弛まぬ努力を続けてプロレス界を牽引してきたアントニオ猪木

 私事で恐縮なのだが、高校、大学時代とレスリング選手だった筆者は、早朝や深夜、時間が空いた時など、自宅前の多摩川河川敷(川崎市中原区)をよく走っていた。そんな多摩川河川敷でよく目撃していたのが猪木だった。

 のちに東スポのプロレス担当記者になってから、そこが猪木の定番ランニングコースだったことを知る。猪木が出発するであろう新日本プロレス道場(世田谷区野毛)から川崎側は、直線距離だとすぐだが、その付近で多摩川を徒歩で渡れるのは二子橋と丸子橋のみ。2つの橋の間の距離は約5km。猪木が川崎側の河川敷を走っているということは、最低でも10km以上の距離を走っているということになる。

 ある日中のこと。走るのに疲れた筆者(当時70~80kg程度)がダラダラとサイクリングコースを歩いていたところ、背後から凄いスピードで走ってくる大男2人に追い抜かれたことがある。それは猪木とデビュー直後の武藤敬司だった。

 プロレスラーの強さとか凄さは、よく議論されるネタではあるが、それはリング上で相手を倒す云々だけでなく、100kg前後の体重を背負いつつ、平気で長距離を走り込めてしまう心臓、心肺機能の強さも大きい。巨体をもって長時間動き回れてしまうスタミナこそが武器なのだ。

巌流島の戦い、別居報道の時も早朝ラン

 35年前(1987年)のちょうど今頃、10月に入ったばかりのことだった。

 夜が明けて間もない早朝、多摩川の第三京浜の橋のあたりの河川敷にゴルフ練習場があり、私は誰もいない芝生の上でブリッジやストレッチをするのが日課だった。するとそこに侵入者が。その正体は新日本プロレスの練習着を身にまとった猪木だった。

 先客の私に軽く会釈した猪木は同じく、芝生でストレッチなどに励んでおり、やがてゴルフ練習客用の渡し船の船頭さん相手に何やら交渉している。交渉は失敗に終わった模様で、猪木はトボトボと上流の二子橋方面へと姿を消した。

 そこから渡し船に乗れば、東京側のすぐに新日本プロレスの道場がある立地だ。急ぎの用事だったのか? それとも疲れたのか? 猪木はゴルフ客用の渡し船を利用しようとしたが断られてしまった模様だ。

 後から聞いた話だが、以降、猪木は付き人同行でない場合、シューズの中に緊急用のタクシー代として1000円札を忍ばせてはランニングしていたらしい。

 その翌日か翌々日には、猪木が巌流島でマサ斎藤と血闘している姿をテレビで目撃して驚かされた。またプライベートでも当時の夫人・女優の倍賞美津子さんとの離婚に向けた別居報道なども同時期だったと記憶している。猪木は仕事も家庭も激動の時期でさえ、早朝のランニングを欠かしていなかったことになる。テレビでおなじみのトップスターが、ここまで真摯に練習を欠かさない姿勢に驚かされた。

【次ページ】 鍛錬はクソ真面目、しかし「馬鹿になれ!」

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