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「馬場は英才教育、猪木には鉄拳制裁」生涯のライバルの“同日デビュー”はこんなにも違った…力道山の下で、二人が初めて出会った日 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/09/30 11:04

「馬場は英才教育、猪木には鉄拳制裁」生涯のライバルの“同日デビュー”はこんなにも違った…力道山の下で、二人が初めて出会った日<Number Web> photograph by AFLO

同日お披露目、同日デビュー、生涯のライバルとなったアントニオ猪木とジャイアント馬場

馬場の英才教育と、猪木の鉄拳制裁

 その後も馬場に対しては英才教育が施された。新人時代から外国人レスラーと対戦するチャンスが与えられ、1961年7月には、デビューからわずか9カ月でアメリカ遠征に出発。ババ・ザ・ジャイアントのリングネームで全米各地でトップヒールとして活躍した。この3年間に及ぶ遠征で、馬場は本場アメリカンプロレスを学び、全米のトップレスラーと互角に闘える実力を身につけた。そんな馬場の本場アメリカ仕込みのスタイルは、のちに「王道プロレス」と呼ばれ、全日本プロレスの代名詞となる。

 これに対し猪木のほうは、力道山家の住み込みの付き人として24時間体制で雑用をこなし、日々、鉄拳制裁を受けながらの厳しい修行生活を送り、それは3年半にも及んだ。その中で猪木は、力道山の大衆のヒーローとしての振る舞いと「プロレスはケンカである」という闘魂を自然と学んでいく。そして力道山流のケンカプロレスと、道場のコーチだったカール・ゴッチから学んだ英国式の本格的なレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を融合させた独自のスタイルを作り上げ、それがのちに「ストロングスタイル」と呼ばれるようになった。

「闘魂と王道」の物語

 馬場と猪木の関係は、1960年4月11日の同日お披露目、9月30日の同日デビューに始まり、力道山の死後、60年代後半から70年代初頭にかけての無敵の最強コンビ「BI砲」時代。そして袂を分かち、1972年からお互い団体の長となり、メインイベンター、プロモーターとして間接的な闘いを続けた70年代から80年代と長期にわたる、まさに生涯のライバルだった。

 そして全く違うプロレス観とスタイルを持った2人のスーパースターが人生を懸けて競い合ったからこそ、日本のプロレスは世界に類を見ない独自の発展を遂げていった。アントニオ猪木とジャイアント馬場、「闘魂と王道」を掲げたふたりのライバルストーリーこそが、日本プロレス界の歴史そのものだったのである。

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