ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「馬場は英才教育、猪木には鉄拳制裁」生涯のライバルの“同日デビュー”はこんなにも違った…力道山の下で、二人が初めて出会った日
posted2022/09/30 11:04
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
今から62年前の1960年9月30日、2人のプロレスラーが同日デビューをはたした。馬場正平と猪木寛至。のちのジャイアント馬場とアントニオ猪木、両巨頭だ。
1972年にそれぞれ全日本プロレスと新日本プロレスを旗揚げ。長きにわたり日本のプロレスを牽引し、プロレス界を作り上げていった両者の関係は、その出会いから運命的なものを感じさせた。
「青果市場に素晴らしい身体をした青年がいる」
アントニオ猪木こと猪木寛至は1943年に神奈川県横浜市で生まれた。13歳の時に横浜市立寺尾中学を2年で中退し、母親、祖父、兄弟とともに移民としてブラジルにわたる。当時、「地上の楽園」として宣伝されていたブラジルだったが、現地での生活は過酷なものだった。一家はここで約3年間、農園で厳しい肉体労働生活を送ったのちサンパウロへ移り住むと、ここで猪木の運命が一転する。
1960年3月、日本プロレスの力道山一行が遠征でブラジルにやってきた。この時、猪木が働くサンパウロの青果市場の組合長が力道山の後援者でもあったため、力道山に「ウチの青果市場に素晴らしい身体をした青年がいるので、会ってみたらどうか?」と勧め、猪木は力道山と面談することとなったのだ。
力道山は猪木を上半身裸にすると背中の筋肉や骨格をまじまじと見つめ「よし、日本に行くぞ」と入門許可。こうして猪木は力道山にスカウトされるかたちで、サンパウロに家族を残して単身帰国した。そして力道山が猪木を連れて人形町の日本プロレス道場に戻ると、そこには入門を希望する長身の若者が待ち構えていた。馬場正平、のちのジャイアント馬場だった。
巨人軍投手だった馬場を襲った悲劇
馬場正平は1938年新潟県三条市に生まれた。少年時代から背が高く高校入学時、すでに身長190cmを優に超えていたという。三条実業高校では野球部のエースとして活躍し、甲子園出場は叶わなかったもののその巨体と身体能力が読売ジャイアンツのスカウト源川英治の目にとまった。まだドラフトもない時代、源川に誘われた馬場は高校を2年で中退してプロ野球・読売ジャイアンツに入団した。なお、同期入団選手には森祇晶、国松彰など、のちに巨人軍V9時代を支えた名選手たちもいた。
16歳でプロ野球選手となった馬場は巨人軍に5シーズン在籍し、2年目の1956年、3年目の1957年と2年連続で二軍の最優秀投手賞を受賞したが、一軍登板は1957年の3試合のみ。通算成績は0勝1敗だった。
そして1959年のシーズン途中で巨人から戦力外通告された馬場は、1960年の春、テスト生として大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)春季キャンプに参加するが、キャンプ地である兵庫県明石市の宿泊先の風呂場で立ちくらみを起こして転倒。左肘の靭帯を断裂する大怪我を負い、左手の指がうまく動かなくなりグローブでボールがキャッチできなくなったことで野球選手としての現役生活を断念する。まだ22歳、スポーツ選手としてはこれからという時に起こった悲劇。失意の馬場が次に選んだ道が、プロレスラーへの転向だった。