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今年で60歳・川平慈英サッカー愛を語りまくる怒涛の90分「クーッ!脳内モルヒネが出まくってた」プロを目指したイケイケFW時代
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKiichi Matsumoto
posted2022/09/23 11:05
9月23日に60歳の誕生日を迎えた俳優・川平慈英。愛してやまないサッカーとの出会いを語った
「10歳になる年に、『農業を勉強して来い』と言われて。ケンジ(次兄の川平謙慈/実業家)と一緒に、お袋の故郷のカンザスに1年間ホームステイをしたんです。鍛えられてこい、ってことなんですけど、お袋は息子たちに自分のルーツを知ってほしかったんじゃないかな」
毎朝4時に起きてヒツジの藁を変えるなど、手伝いをしてから小学校に通った。するとある日、クラスメイトからサッカーに誘われる。地元へストン大学のサッカー部のコーチが、毎週土曜日にサッカー教室を開いているというのである。
「仲良くなった子から『サッカー、面白いから来ないか』って。沖縄では野球が盛んだったから、それまでサッカーをしたことがなくて。ボールを蹴ったら、こんなにも楽しいのかと。僕は足が速かったから、簡単にぶち抜けたんです。スタメンで起用され、ゴールも決めて。もう、嬉しくて、嬉しくて。シーバーというそのコーチも褒めてくれるし、自分がこんなにスターになれるスポーツがあったのかって、サッカーの虜になっちゃった」
帰国後、川平家は沖縄本土復帰にともなう父親の転勤で東京に移り住み、慈英は玉川学園中等部に進学する。サッカー部に入部し、ここでもエースストライカーとして活躍した。
「5時12分の始発に乗って、毎日朝練。でも、ボールを蹴れることが楽しくてしかたなかったから、苦じゃなかった。脳内モルヒネが出まくってたなあ。ボールに触るだけで、サッカーハイでした。サッカーは一生辞めることはないだろうなって」
玉川学園高等部に進学後も、当然のようにサッカー部に入部した。しかし、待っていたのは、失望だった。
「レベルが低過ぎた。忘れもしない、ある試合で先輩がヘディングをしたんです。そうしたら『リーゼント乱れちゃったよ』と言って、ストッキングから櫛を出して、髪を直したんです。こりゃダメだなと。こんなところではやれないなって」
ノンアポで名門・読売ユースの練習に
行き場をなくした川平に手を差し伸べてくれた人物がいる。
玉川学園のひとつ上の先輩で、のちに横浜FC監督を務める足達勇輔だった。
「足達さんが『慈英どうするんだ?』と。『俺は読売でサッカーやってるんだけど、お前も来ないか?』と言ってくれたんです」
読売とは1969年に創設された読売サッカークラブのことである。日本のトップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)がアマチュアリーグだった時代に、プロを目指す日本初のクラブチームとして発足した。
足達は玉川学園高等部のサッカー部には入らず、読売ユースでプレーしていたのだ。
「『どうすればいいんですか?』と聞いたら、『電話とかいらないから、とにかく来いよ』と。それで、怖いなあと思いながら、ノンアポで行って。飛び込みですね。『なんだ、お前』『玉川学園だと?』って言われて。よりによってその日は足達さんがいなかったんだけど、『ああ、足達のところか。とりあえず参加してみろ』と。でも、誰も喋ってくれない。値踏みするように見てる。その中で2時間、とにかくアピールして。『オーケー、明日から来い』と言われたときは、嬉しかったなあ。何が評価されたかって? スピードと、粗削りだったけど、伸びしろとか吸収力、ガッツが評価されたんじゃないかな」
川平が加入した1978年、読売クラブはJSLの1部に昇格し、強豪の仲間入りを果たそうとしていた。南米仕込みのショートパスを繋いで相手を崩すスタイルで、トップチームには与那城ジョージ、小見幸隆、岡島俊樹、松木安太郎といった選手が在籍していた。
ちなみに、その年の1月には、ルイ・ゴンサウヴィス・ラモス・ソブリーニョ(のちのラモス瑠偉)が日産自動車との試合中、相手選手を追いかけ回すという暴力行為によって1年間の出場停止処分を受けている。