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「真剣師のプロ希望に賛否両論」田丸昇九段が見た“新宿の殺し屋”伝説…羽生善治9歳が記録係、A級棋士との“事件”が起きた対局とは
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2022/08/30 11:00
「真剣師」として将棋界に衝撃を与えた小池重明。棋士視点から見て、どのような人物だったのか
1983年1月、東京の将棋会館で「棋士会」が開かれた。私を含めて約30人が出席した。松田九段は小池のプロ入りの件について経緯を報告した。大半の棋士が初めて聞いた話だった。
棋士会での声は賛否両論だった
冒頭で触れた小島さんの記事には、《棋士総会では素行が問題視されて大反対にあい……》と書かれてある。これについて、少し補足する。
連盟理事会と棋士たちが自由に話し合う場が「棋士会」(現在は月例報告会)。東西の棋士たちが一堂に会して決議する場が「通常総会」(または棋士総会)。前者には、総会と違って決定権はない。
棋士会での声は賛否両論だった。
「タイトル保持者を次々と破るアマが現れたら、将棋連盟の方からプロ入りをお願いするのが筋で、それくらいの度量があっていい」という容認論、「特例のプロ入りを認めたら、奨励会制度の根幹に影響する」という否定論など、いろいろな意見が出た。小池の素行を批判する声は、席上ではあまりなかった。
結局、全体に否定的な空気となり、小池のプロ入りの件は棋士たちの賛同を得られなかった。松田九段の事前の根回しも十分ではなかったようだ。なお、大山会長はその棋士会に欠席だったと記憶する。
小池から22年後、瀬川アマがプロ編入試験を経て棋士に
棋士会で反対されて悄然としていた松田に、「アマ棋界から広く人材を求める時代になったと知らせたのは、決して無駄ではなかったと思います」と語りかけた棋士がいた。なかなかの先見の明だった。
それが実現したのは22年後の2005年。瀬川晶司アマ(現六段)がプロ入りの嘆願書を将棋連盟に提出し、実施されたプロ編入試験に合格して棋士になった。
小池はその後、寸借詐欺が発覚し、将棋界から姿を消した。以降の凄絶な人生については省略する。
小池の異名は「新宿の殺し屋」。しかし、実際は気さくでお人好しの性格で、情にもろかったという。借金を重ねても、当事者たちは行く末を心配し、表立って非難しなかった。アマ棋界では大の人気者で、スーパーヒーローでもあった。
小池は1992年5月1日、44歳で死去した。
2002年10月、小池の生き様に理解を寄せて後見人だった作家の団鬼六がパーティーを開き、小池を主人公にした映画を製作する計画を発表した。小池役として個性派俳優の遠藤憲一が席上で紹介された。しかし、資金面で目途が立たなかったのか、映画化は実現しなかった。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。