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「真剣師のプロ希望に賛否両論」田丸昇九段が見た“新宿の殺し屋”伝説…羽生善治9歳が記録係、A級棋士との“事件”が起きた対局とは

posted2022/08/30 11:00

 
「真剣師のプロ希望に賛否両論」田丸昇九段が見た“新宿の殺し屋”伝説…羽生善治9歳が記録係、A級棋士との“事件”が起きた対局とは<Number Web> photograph by Kyodo News

「真剣師」として将棋界に衝撃を与えた小池重明。棋士視点から見て、どのような人物だったのか

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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Kyodo News

型破りの人生を送った「真剣師」の小池重明。小島渉さんが小池を取り上げた記事(8月14日配信)は、田丸昇九段にとってもとても興味深い内容だったという。実は、田丸九段も生前の小池と関連があったからだ。9歳の羽生善治が小池の対局で記録係を担当、小池がA級棋士の森けい二八段に平手で勝利、プロ入りを希望する小池に棋士たちが反対したの件などについて、自身の体験や詳しい資料を基にして掘り下げてもらった。【文中敬称略。棋士の肩書は当時】

 小池重明は1947年(昭和22)12月24日、愛知県名古屋市中村区牧野町で生まれた。出自や境遇、将棋に熱中した少年時代のことは、小島さんの記事と重なるので省略する。

 小池は1968年に全日本アマ名人戦の愛知県大会に参加して県代表(2人)になり、東京での東地区大会に20歳で初出場した。予選リーグを経て決勝トーナメントに進出し、1回戦で関則可と対戦して敗れた。

 関は奨励会(棋士養成機関)に在籍したこともあるトップクラスのアマ強豪で、1968年のアマ名人戦で優勝した。後年には「アマチュア将棋連盟」を結成して代表に就任、アマ棋界のリーダーとして活動した。

 小池は東京で修業したいと痛感した。そこで関を頼って上京し、生活の面倒までみてもらった。東京で多くの強豪と対戦すると、めきめきと力をつけていった。高校時代に経験した「真剣」(賭け将棋)もよく指した。勝って金を手に入れるのは快感となった。

「でたらめな人間ですよ。でも将棋だけは別格」

 ただ酒やギャンブル、女に溺れ、私生活は乱れてしまった。

 関は小池について、「飲む、打つ、買うの日々でした。女に狂って店の金を使い込んで故郷に逃げ、また女に狂って東京に舞い戻る。そんなことを繰り返していました。でたらめな人間ですよ。でも将棋だけは別格で、たしかに強かった」と語った。

 小池は名だたる強豪たちとの「真剣」で死闘を重ね、「新宿の殺し屋」という異名がついた。ところが、強すぎて真剣の相手がいなくなってしまった。真剣で生業を立てるには、お得意の相手を生かさず殺さず、勝負をすることが肝要となる。わざと負けていい気分にさせたり、2倍層(相手が1勝2敗で五分)のハンデを設けることもある。

全日本アマ名人戦予選で羽生が記録係を務めた日

 日本将棋連盟の機関誌『将棋世界』は、若手棋士とアマ強豪が平手(ハンデなしの互角の手合い)で対戦する企画を1978年に始めた。1年間にわたる第1次の結果は、プロ側の12戦全勝に終わった。

 無聊気味だった小池は力試しをしたいと思い、1979年の第2次への参加を申し込んだ。

 小池はその1戦目で飯野健二四段と対戦した。中盤で苦しい形勢だったが、終盤で相手のミスに乗じて肉迫し、アマ初勝利を収めた。誌面の表題に「プロ落城の日」という文言が載った。

 その後、小池は別のアマプロ戦の企画でも棋士を連破し、「プロ棋士キラー」と呼ばれた。

【次ページ】 当時の羽生は振り飛車をたまに指していた

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