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「なぜ宝塚歌劇の町に競馬場がある?」「阪神競馬場には行くけれど…」阪急電車の“ナゾの競馬駅”「仁川駅」には何がある?《宝塚記念》
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph bySankei Shimbun
posted2022/06/26 06:00
1998年の宝塚記念(阪神競馬場)で優勝したサイレンススズカ。これが最初で最後のG1勝利だった
武庫川沿いの田園地帯に過ぎなかったその一帯には、戦時中に川西航空機の宝塚工場が設けられていた。軍用機メーカーの工場だったため事業は廃止され、用地は国の管理下。その払い下げを受けて、新たに競馬場を建設しようと計画し、それが実現したのがいまの阪神競馬場というわけだ。
ちなみに、その頃の競馬界にはウマ娘もネット投票もなく、戦後間もない時期で売り上げも振るわない。用地を取得して大規模な競馬場を自前で建設する能力は持ち合わせていなかった。そのため、阪急などにも協力を仰ぎ、京阪神競馬という民間の管理会社が競馬場を建設して完成後はそれを借り受ける方式を採っている。阪急と競馬、実はとても縁が深いのである。
もうひとつの“宝塚市のシンボル”となった
つまり、もともと鳴尾浜にあった競馬場が、軍需工場に追いやられて移転先を求めて右往左往、結局仁川にあった軍需工場の跡地に阪神競馬場を建設したというのが経緯である。高級住宅地ではなく田園地帯の中にあった軍需工場の跡地の再利用なのだから、反対する人もいまい。競馬場が住宅に囲まれるようになったのは1970年代以降のことで、今津線らしい住宅地は仁川沿いや今津線の西側を中心に広がっていったから、阪神競馬場が今津線のみなさまに迷惑をかけるようなことはほとんどなかったのだろう。
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完成直後の阪神競馬場はなかなか劣悪な環境だったというが、1950年に桜花賞が移設。鳴尾記念や神戸盃(神戸新聞杯)、阪神大賞典といった名物レースも1950年代に生まれ、そのうちに日本中央競馬会が発足。1960年に宝塚記念がスタートしていまに続いている。
その阪神競馬場の歴史とともに、今津線沿線は戦前から開発された六甲山地東麓の西側だけでなく、東側も宅地化が進展していまの今津線沿線の風景が形作られていった。宝塚市のターミナル・宝塚駅は戦前から変わらずに歌劇団の町として隆盛を誇る。それとは少し離れた田園地帯の工場跡地に現れた競馬場は、いまやもうひとつの宝塚市のシンボルとなり、宝塚記念というビッグレースの歴史を紡いでいるのである。
(写真=鼠入昌史)