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「なぜ宝塚歌劇の町に競馬場がある?」「阪神競馬場には行くけれど…」阪急電車の“ナゾの競馬駅”「仁川駅」には何がある?《宝塚記念》 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/06/26 06:00

「なぜ宝塚歌劇の町に競馬場がある?」「阪神競馬場には行くけれど…」阪急電車の“ナゾの競馬駅”「仁川駅」には何がある?《宝塚記念》<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1998年の宝塚記念(阪神競馬場)で優勝したサイレンススズカ。これが最初で最後のG1勝利だった

 阪神競馬場のルーツは、1907年に西宮市の海沿い、鳴尾浜と呼ばれる一帯にできた競馬場であった。この競馬場は鳴尾競馬場と呼ばれ、1910年には帝室御賞典、すなわち現在の天皇賞に続くビッグレースがはじまっている。さらに1938年には阪神優駿牝馬、現在の優駿牝馬(オークス)も行われるようになった。この時点で、鳴尾浜の競馬場はすでに東京・中山・京都などと並んで日本を代表する競馬場だったのだ。さらに競馬場の内馬場には野球場が設けられ、1917年には現在の夏の甲子園、全国中等学校優勝野球大会も行われた。

 そんな鳴尾競馬場だったが、戦争が激化する中で1943年に海軍に接収されてしまう。海軍の軍用機を開発・製造していた川西航空機の工場用地に充てられたのだ。もちろんただ接収されただけでなく、海軍の斡旋で代替地が確保された。その場所は、今津線小林駅の西側、六甲山の裾野一帯。当時から今まで宝塚ゴルフ倶楽部などがある丘陵地が、新たな阪神競馬場(逆瀬川競馬場)になる計画であった。

 とはいえ、1943年はもう戦争も抜き差しならぬ状態のご時世。工事こそ進められたが、完成を見ないままに戦争が終わり、さらに宝塚ゴルフ倶楽部を含む競馬場用地は連合軍に接収されてしまう。

「アメリカ軍がゴルフを楽しんでいたから」

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 宝塚ゴルフ倶楽部は18ホールのうちハーフの9ホールを残して用地を競馬場用地として当時の日本競馬会に売却した。しかし、ゴルフ場が18ホールまるごと連合軍に接収されて、競馬場建設の続行が難しくなったのだ。接収の目的は、主に第二十五歩兵師団(アメリカ陸軍)がレクリエーションとしてゴルフを楽しむことにあったという。

 もちろん返還を求めて競馬会もGHQ側と交渉をしたが、当時の第二十五歩兵師団のブラウン代将が「本ゴルフコースは当司令部の管轄下にある当地域占領軍の保健及び休養の施設として、重要なものであることに御留意ありたい。したがって、現在においては競馬の目的に改造するためこれを解放することは許可できない」と明確に拒絶。阪神競馬場移転問題は、戦中戦後の荒波の中で完全に頓挫したのである。

 ただ、関東では中山・東京の2競馬場で交互にレースが行われているのに関西では京都競馬場一本槍ではレースレベルを維持したり出走機会を確保するのも難しい。阪神競馬場の開設は急務であった。そこでさらなる代替地として目をつけたのが、仁川駅の東側、現在の阪神競馬場の一帯である。

【次ページ】 もうひとつの“宝塚市のシンボル”となった

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