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「ブラジル、練習モードで1-0」「ファン・現地紙が酷評」日本が“舐められた”33年前の初対戦と“中田英寿ラストゲーム”を現地で見た 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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posted2022/06/06 11:04

「ブラジル、練習モードで1-0」「ファン・現地紙が酷評」日本が“舐められた”33年前の初対戦と“中田英寿ラストゲーム”を現地で見た<Number Web> photograph by JMPA

ドイツW杯の日本vsブラジル。ブラジルから帰化した三都主アレサンドロもその強さを実感した

 最初の対戦は、1989年。リオで行なわれ、日本が0-1で敗れた。この試合を含めて5連敗した後、2001年にコンフェデレーションズ杯でカシマスタジアムで対戦してスコアレスドロー。さらに2005年、やはりコンフェデレーションズ杯でケルンで対戦して2-2の引き分け。

 2試合連続の引き分けで、実力差が多少縮まったかと思いきや、以後、現在に至るまで5連敗中。この中には、2006年W杯ドイツ大会のグループステージ(GS)で日本が玉田圭司のゴールで先制しながら、4ゴールを奪われて逆転負けを喫した試合が含まれる(W杯で対戦したのはこの試合だけ)。

初対決とドイツW杯観戦で感じた日本とブラジルの差

 1989年と2006年の対戦を、僕はいずれも現地で観戦している。この2試合を振り返りながら、「日本とブラジルの差」について考えてみたい。

 1989年の試合は、7月23日、リオの名門バスコダガマの本拠地サンジャヌアリオ・スタジアムで行なわれた。

 この年の7月1日から16日まで、ブラジルはコパ・アメリカ(南米選手権)を開催。天才ディエゴ・アルマンド・マラドーナ率いるアルゼンチン、名手エンゾ・フランチェスコリが攻撃を牽引したウルグアイを倒して優勝していた。

 コパ・アメリカで優勝してからわずか1週間後で、7月30日に始まる1990年W杯南米予選の準備のための強化試合という位置付けだった。

ドゥンガ、ロマーリオらが居並ぶ豪華な面々

 監督は、セバスティアン・ラザローニ(2001年から2002年まで横浜F・マリノス)。当時、欧州で流行していた3-5-2のフォーメーションを採用していた。

 先発メンバーは、コパ・アメリカ決勝から2人変更しただけ。GKタファレル、CBアウダイール、MFドゥンガ、FWロマーリオ、カレッカ、ベベットら錚々たるスターが顔を並べた。

 一方、日本は1986年W杯、1988年ソウル五輪のアジア予選でいずれも敗退。Jリーグはまだ創設されておらず、暗黒時代の真っ只中にあった。

 それでも、1986年以降、個々の選手が所属クラブとプロ契約を結ぶことは認められており、アマチュアからプロへの過渡期にあった。

 折りしも、日本代表は再出発するため若手を加えて南米遠征中で、それゆえブラジル代表という“超格上”と試合を組んでもらえたようだ。この試合までにアルゼンチンとブラジルのクラブチームと対戦し、1分4敗だった(ブラジル戦の後にもクラブチームに敗れ、1分6敗、得点3、失点10で遠征を終えた)。

 横山謙三監督がやはり3-5-2のフォーメーションを採用し、最終ラインに井原正巳(当時筑波大学、現柏レイソルヘッドコーチ)、中盤に望月聡(当時NKK、現びわこ成蹊スポーツ大学教授)、攻撃陣に長谷川健太(当時日産自動車、現名古屋グランパス監督)、水沼貴史(当時日産自動車、現解説者)らがいた。

ブラジルの面々は緊張感がなかった

 当時、僕はサンパウロで日本語新聞の記者をしていた。コパ・アメリカの主な試合を観戦した後、この試合を見るためにまたリオへやってきた。

 サンジャヌアリオ・スタジアムの収容人数は約4万人だったが、この試合は3分の1程度の入りだった。

 ブラジルは、シャツがカナリアイエロー、パンツが青、ストッキングが白といういつものユニフォーム。日本は、上から下まで全部赤だった。

 試合が始まってすぐに気付いたのは、ブラジル選手の緊張感のなさ。コパ・アメリカで、聖地マラカナン・スタジアムで10万人を超える観衆から凄まじい声援を受けながら南米の強豪と激闘を繰り広げていたときとは全く違っていた。

【次ページ】 試合を決めたのは、あのビスマルクだった

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