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「流血したジャンボ鶴田はカメラマンを両手で…」突然の訃報から22年、“疲れを知らないプロレスラー”が成し遂げた日本人初の偉業とは 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/05/30 17:01

「流血したジャンボ鶴田はカメラマンを両手で…」突然の訃報から22年、“疲れを知らないプロレスラー”が成し遂げた日本人初の偉業とは<Number Web> photograph by Essei Hara

ジャンボ鶴田の強烈なジャンピング・ニー。身長196cmの雄大な体格を誇りながら、跳躍力も並外れていた

現役時代から「血が止まりにくい体質」だった

 89年4月18日、鶴田は大田区体育館でハンセンを倒して、インターナショナル、PWF、UNの3つの王座統一を果たした。これも統一はないと思われていたが、その見立てを覆してしまえるのが鶴田だった。それ以来、3冠がバラバラに解体されることはなかった。

 藤波辰巳(辰爾)とのBI代理闘争は実現しなかったが、長州力とのフルタイムの大阪城決戦があった。天龍源一郎とも戦った。ハンセン、ブロディ、ロード・ウォリアーズら大型ファイター相手でも鶴田は引かなかった。谷津嘉章との五輪タッグも息が合っていた。

 驚異的なスタミナからくるものなのだろうが、余裕の試合運びが逆に凄みを欠いた感はある。普段着でトレーニングの取材を受けてしまう、見せることに無頓着な割り切った姿勢には感情移入できない部分もあった。

 鶴田は出血するとなかなか血が止まらなかった。流血した鶴田は場外で起き上がるとき、近くにいるカメラマンをよく両手でギュッと掴んだ。血がつくのであまり近づかないようにしていたが、離れていてもよろけてきて、がっちりこちらのジャケットを掴んできた。そして、ぐっと目を見開くとまたリングに向かった。

 バックドロップ、スープレックス、ジャンピング・ニー・アタック。それらを豪快に、そしてきれいに決めた。

 だが、そんな鶴田がB型肝炎を発症してしまう。1992年から93年にかけて長期の入院。退院して復帰戦は行ったが、鶴田はプロレスとは別の人生を考えた。社会人からの特別枠で筑波大に入学し、1997年に修士課程を終えて母校である中央大学の講師になった。

 1999年3月、日本武道館で引退セレモニーを終えた鶴田は、すぐにアメリカ・ポートランド州立大学に赴任した。

 しかし先述のように、フィリピンで肝臓移植手術を受けた鶴田は帰らぬ人になってしまった。

 故郷の山梨市にあるジャンボ鶴田の墓には、AWA世界ヘビー級王者の雄姿と共に「人生はチャレンジだ!!」という文字が大きく刻んである。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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