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「流血したジャンボ鶴田はカメラマンを両手で…」突然の訃報から22年、“疲れを知らないプロレスラー”が成し遂げた日本人初の偉業とは 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/05/30 17:01

「流血したジャンボ鶴田はカメラマンを両手で…」突然の訃報から22年、“疲れを知らないプロレスラー”が成し遂げた日本人初の偉業とは<Number Web> photograph by Essei Hara

ジャンボ鶴田の強烈なジャンピング・ニー。身長196cmの雄大な体格を誇りながら、跳躍力も並外れていた

 1本目、鶴田はドロップキック2発から、ベリー・トゥー・ベリーのフロント・スープレックスを決めて先制のフォールを奪った。

 2本目はブリスコが得意の足4の字固めで1-1に持ち込んだ。

 3本目、ブリスコの足殺しでダメージを重ねた鶴田は、ジャンピング・ニー・アタックにも切れがなく苦しい戦いになった。だが、ブリスコがバックドロップからまた足4の字固めに入ろうとしたとき、鶴田はブリスコをうまく丸め込んでフォール勝ちした。

 こうして鶴田はUN選手権を獲得し、自身初のシングル王者となった。

 鶴田がアメリカで初めて試合をしたのは1973年の3月だったから、デビューから3年半での快挙だった。

日本人初のAWA世界ヘビー級王座へ

 83年8月31日、蔵前国技館で鶴田はブルーザー・ブロディを倒してインターナショナル・ヘビー級王座を獲得すると、通算で35回も防衛したUN王座を返上した。鶴田の無尽蔵のスタミナは、めったに人をほめないブロディをも驚かすものであった。

 鶴田の金字塔は当時NWA、WWFと並び「世界三大王座」と言われたAWA世界ヘビー級王座の獲得だった。バーン・ガニア帝国のタイトルは日本人には遠いものだった。2つのピンフォールを奪わなければタイトルは移動しないという当時のルールでは、反則やリングアウトで試合に勝ったところで、タイトルの移動はないというのが定番だった。

 1984年2月23日、蔵前国技館。インターナショナル選手権者の鶴田と、AWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルのダブル・タイトルマッチが行われた。

 インターナショナル王者となった鶴田は、全日本プロレスのエースとして馬場からすでにお墨付きをもらっていた。

 それまでにも鶴田はNWA世界ヘビー級王者のリック・フレアーやAWAのニックに挑戦し、記録的には勝ったこともあったが、前記のような当時の王者保護ルールで「世界」のベルトを巻くことはできていなかった。

【次ページ】 蔵前国技館でプロレス界の「常識」が覆った瞬間

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