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「流血したジャンボ鶴田はカメラマンを両手で…」突然の訃報から22年、“疲れを知らないプロレスラー”が成し遂げた日本人初の偉業とは
posted2022/05/30 17:01
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
ジャンボ鶴田23回忌追善興行が、5月31日に後楽園ホールで行われる。鶴田と三冠戦を争ったスタン・ハンセンらが来場予定だったが、新型コロナウイルスに感染してしまい、来日できなくなってしまった。天龍源一郎、ザ・グレート・カブキ、川田利明、田上明、小橋建太らがゲストとして来場する。
2000年5月13日、鶴田はフィリピンでの肝臓移植手術中に亡くなった。49歳だった。「鶴田が死んだ」と聞いたときは信じられなかった。鶴田は疲れをまったく知らないように戦っていたし、引退後はプロレスとは違う教育や学問の道へと踏み出したばかりだった。
ジャイアント馬場が「大器」鶴田にかけた期待
1972年10月、ミュンヘン五輪出場を経て「全日本プロレスに就職した男」は、そのずば抜けた身体能力を生かし、旗揚げして間もない団体の中であっという間にトップの座に駆け上がっていく。
最初に筆者が生で鶴田を見たのは1976年6月11日の蔵前国技館だった。相手はNWA世界王者テリー・ファンク。「試練の10番勝負」の3戦目で、NWA世界王座への挑戦だった。鶴田のフロント・スープレックスやダブルアームスープレックスは豪快だった。
当時、鶴田はすでにジャイアント馬場との師弟タッグでドリーとテリーのザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪っていたが、シングル王座はまだ手にしていなかった。
総武線の線路を挟んで、現在の両国国技館とは逆側の回向院のそばに日大講堂があった。それは蔵前国技館以前の両国にあった旧国技館で、大鉄傘とも呼ばれたが、何度かの火災で再建された。メモリアルホールという名前の時もあった。
1976年8月28日、3年ぶりに復活したユナイテッド・ナショナル(UN)選手権60分3本勝負はこの日大講堂で行われた。ジャック・ブリスコとジャンボ鶴田による王座決定戦だった。
UN選手権のベルトは日本プロレス時代にアントニオ猪木、坂口征二らが巻いたことがある。最後の王者は高千穂明久(後のグレート・カブキ)だったが、日本プロレスの崩壊により、王座は返上されて空位になっていた。それが馬場の要請で復活し、さらに高千穂が鶴田に挑戦の権利を譲る形で、鶴田がこの王座決定戦に出場した。馬場の鶴田への期待度はかなりのものだった。
鶴田はブリスコがNWA世界ヘビー級王者だった期間に3度タイトルに挑戦したが、王座奪取はならなかった。ブリスコはテリーにNWA世界王座を奪われたが、約2年間世界の頂点に君臨していた実力者だ。