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「全日本プロレスに就職します」 “サラリーマンレスラー”と揶揄されたジャンボ鶴田が切り開いた人生…貼られたレッテルと“非凡さ”
posted2022/05/29 11:03
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
全日本プロレスで「完全無欠のエース」と呼ばれたジャンボ鶴田が、2000年5月に49歳の若さで亡くなって早22年。5月31日に後楽園ホールで「ジャンボ鶴田23回忌追善興行」が開催される。
今でこそ「歴代最強の日本人プロレスラーの一人」との評価が確定している鶴田だが、生前はなかなか正当な評価が得られないレスラーでもあった。
ジャンボ鶴田こと鶴田友美は、ミュンヘンオリンピックのグレコローマンレスリング日本代表の肩書きを引っさげ、中央大学卒業を控えた1972年10月に、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスへの入団を発表。その会見で「全日本プロレスに就職します」という有名なコメントを残している。プロレス界に似つかわしくない「就職」という言葉は、大学出のアスリートである新しいタイプのレスラー鶴田を象徴するものだったが、長らくこれが足かせとなった。
“サラリーマンレスラー”と揶揄された鶴田の真の姿
昭和の時代、プロレスラーは怪物的なイメージを守るため、リングを降りても「プロレスラー」を演じ豪快に振る舞うのが当たり前だったが、鶴田はリングを降りたら普通の人であろうとした。大酒は飲まず、貯金に励み、オフは家族との生活を優先した。鶴田は生前そんな自らの人生観を語ることもあったが、当時のファンにはなかなか受け入れられなかった。
また鶴田は、リング上においても、誰と闘ってもそつなく試合をこなすが、気迫を前面に出さない性格から、全日本入団の時に発した「就職します」という言葉尻を取られて、“サラリーマンレスラー”と揶揄されることも多かったのだ。
当時の鶴田には、「運動神経は抜群だけれども、どこか煮え切らない」という印象を持つ人が多かっただろう。あまりにも順風満帆なレスラー人生が、エリートを嫌う気質を持つプロレスファンの反感を買った部分もあった。しかし、ジャンボ鶴田の真の姿は、レールに乗せられたエリートではなく、自らの努力で道を切り開いてきた人生の開拓者だった。
相撲の新弟子生活が一瞬で終わった理由
鶴田は中学2年の時、ほんの短い期間ながら相撲部屋に入門している。少年時代から身体が大きく、運動神経抜群だった鶴田の元に大相撲の朝日山部屋からスカウトが来たのだ。もともと将来的にはスポーツで生計を立てていこうと考えていた鶴田は、「東京見物」を口実に山梨県から上京させられ、新弟子検査に合格するとそのまま朝日山部屋に入門するが、新弟子生活が始まってすぐ問題が持ち上がってしまう。
鶴田の叔父が幕内まで昇進した力士であったこともあり、叔父と違う部屋に入門したことが親族の間で問題視されたのだ。また、これによって、本来は高校卒業後に角界入りを考えていた鶴田の決断も鈍り、結局、鶴田の相撲部屋での生活は中学2年の夏休み中だけで終わる。