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「流血したジャンボ鶴田はカメラマンを両手で…」突然の訃報から22年、“疲れを知らないプロレスラー”が成し遂げた日本人初の偉業とは
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/05/30 17:01
ジャンボ鶴田の強烈なジャンピング・ニー。身長196cmの雄大な体格を誇りながら、跳躍力も並外れていた
ニックの15歳のデビュー戦の相手は鉄人ルー・テーズ。どれだけ期待されてのデビューだったのかがわかる。だがニックは遅咲きで、名を馳せるのはミネソタAWAのマーケットに主戦場を移してからだった。1975年11月に帝王バーン・ガニアからAWA世界王座を奪った。それから長きにわたってチャンピオンとしてAWAを支えた。
ただ、実力者でありながらプロレスラーとして海千山千のニックは「反則負け」という常套手段でタイトルを守り続けることに徹した。それが、アメリカン・プロレスの一つのスタイルでもあった。
蔵前国技館でプロレス界の「常識」が覆った瞬間
だが、鶴田とのダブル選手権試合は「反則でもリングアウトでもタイトルが移動する」というルールが採用されて、しかも1本勝負。鶴田有利、とはいっても、両者リングアウトや時間切れの引き分けに持ち込めば、ニックはいつものように逃げ切ることができる。
さらに、メイン・レフェリーにはテリーが指名されて、サブ・レフェリーにはジョー樋口がついた。完全決着の雰囲気は整っていた。それでも、鶴田がAWAのベルトを巻く姿をなかなか想像することはできなかった。
試合が始まった。激闘のさなか、ニックが鶴田にタックルを浴びせて、テリーと共に場外に落とすというシーンが発生した。
その後もピンチは続いたが、鶴田はニックのロープ越しのブレーンバスターを逃れた。
鶴田はニックを抱えると後ろに投げた。そして、ブリッジしてそのままフォールした。バックドロップ・ホールド。テリーが確認するようにゆっくりと3カウントを入れた。32分0秒。
AWA世界ヘビー級王者ジャンボ鶴田が誕生した。蔵前国技館に集ったファンは歓喜した。何か信じられない場に遭遇した気がした。「どうせタイトルは移動しない」という常識は、見事に覆された。
そして、鶴田はアメリカでも王者として防衛戦を続けた。鶴田はすぐには負けなかった。王者の特権を利用し、アメリカの王者がそうしていたようにベルトを守った。鶴田は日本とアメリカで16回のAWA世界王座防衛に成功した。