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格闘技PRESSBACK NUMBER
“右目を失明しながらヒクソンと対戦した男”中井祐樹はなぜ憧れていたUWFと決別したのか?「真剣勝負にキャメルクラッチはありえない」
posted2022/05/13 17:01
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph by
Susumu Nagao
ときは1990年、大学2年の冬だったと記憶している。中井祐樹は北大柔道部の監督とじっくりと話す機会があった。杯を重ねながら、中井は自分の将来について真顔で話し始めた。
「先生、いま東京にはシューティングというのがあります。寝技も打撃も全部できる格闘技です。僕は七大戦で優勝したら、大学を辞めてシューティングをやるために上京します」
シューティングとは、現在の修斗を指す。80年代半ば、初代タイガーマスクこと佐山聡が創設した、日本の総合格闘技のルーツともいえる競技だった。旧UWFを脱退後、佐山は自らが運営するスーパータイガージムを舞台に、のちにシューティングとなる「新格闘技」を試行錯誤するようになっていた。
監督の反応は覚えていないが、中井は「たぶん『はぁ?』みたいな感じだったと思う」と述懐する。無理もない。当時MMAはひとつのジャンルとして確立しておらず、「総合格闘技」という言葉すらない時代だったのだから。組み技も打撃も全部できる格闘技といえば、誰もがプロレスを想像した。
中井はため息をつきながら「まあ、わかりっこないですよ」と当時を振り返る。
「柔道をやっている人は柔道しか興味がない人が多いですから。それが普通なんです」
話を切り出した時点で、北大柔道部の監督はシューティングの存在すら知らなかったと推測される。つまり、それだけマイナーな存在だったのだ。黎明期のシューティングを報道していたのは、創刊間もない『ゴング格闘技』や『格闘技通信』などの専門誌に限られていた。
「まったく真剣勝負じゃない…」UWFと決別した日
その半年ほど前、大学生協の書籍部に並んでいた月刊の格闘技専門誌でシューティングのプロ化を知ると、中井は色めきたった。
「プロだったら、自分も生きられると勝手に思い込んでしまいました。競技をやれば、給料が出ると思っていたんですよ(笑)」
振り返ってみれば、大学に入学してから中井の格闘技に対する価値観は大きく変化しつつあった。高校時代、UWFが新日本プロレスから独立する形で再スタートを切ったときには、UWFに熱狂していた。
「よし! これで、やっとプロレスを“真剣勝負”と言えるようになる」
当時、生粋のプロレスファンだった中井はプロレスを守る立場にいた。「プロレスなんてショーじゃないか!」という疑問をぶつけてくる者がいても、論破する自信があった。